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ちはやぶる① [歴史]

ちはやぶる・・・は神様などのかかる枕言葉のようだ。多くの枕言葉同様、その語源は定かでない。

ただ、『チ』というのは、血、父、乳のように神様や生命エネルギーのことをさすと聞いたことがある。オオムナチのチ、テナヅチのチ、メキシコあたりのチチカカ湖のチも神様の意味らしい。ということで、現代の父のほうは随分と威厳がなくなったものだ。そういえば、中国語の気もチと発音する。

さて、ちはやぶる(ちはやふる)とタイトルの漫画が人気だそうだ。今朝の新潟日報に出ていた。NHKでドラマ化された書道クラブの話があったが、それのカルタ(百人一首)クラブの話だろうか?

幼い子供なんかは、和歌の意味や裏読みも知らずに暗記するのだろうが、少なくとも国語・社会の教育にたずさわる者は、その意味を知っているべきだろう。カルタなどの歌は、おもに万葉集の和歌が元になっているとは思うのだが、この万葉集というものは歴史研究にとってとても重要な資料である。

古田先生の研究によると、万葉集には当然、これに先立つ源・万葉集があった。後に大和朝廷はその都合の悪い部分をカットして(検閲)したので、『読み人知らず・・・』や『庶民の歌』などというまことしやかなウソがまかり通るようになった。考えても見てくれ、庶民が和歌なんて詠めますか?まして当時の庶民は字も知らないそうではないですか。仮に知っていたとしても、当時は万葉仮名ですぜ。つまり全部漢字!だいたい、現代の高等教育を受けた庶民でも、和歌なんて詠めませんし、詠もうとも思わないでしょうね。

実際、万葉集の歌のなかには前文で、『あるふみいわく(一本曰く)』というように、原本があったということを認めている。つまり、東国にも、出雲にも、そして九州筑紫にも、本家・万葉集があったに違いないのだ。

もし仮に、庶民が和歌と詠んだとしたら、当然それは朝廷の役人が聞き取って万葉仮名で記録するという作業が必要になるわけですね。

 


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空海と唐と三人の天皇~平城天皇の正体? [歴史]

小林先生の完結編ともいえる本が出版されていた!今年の6月に出ていたのですが、日本史関連書籍の場合、くだらない本がメインの場所を蹂躙しているので気づきませんでした。もっとも例外的に古田先生の本は一番上に目立つように表紙を前向きにしておかれていますけど・・・。

今や日本の常識になりつつある王朝交代説。いわゆる通説派の学者たちは反論もできないので、だんまりを決め込んでいます。とにかく(いい意味での)論争を期待しても全くムダ。天皇陛下も本当は古田先生や小林先生に文化勲章を贈りたいじゃないかなあ~。

さて、この本ではマイナーな平城(へいぜい)天皇についてスポットをあてている。私も、平城天皇のことは名前しかしりませんが、その名前からして平城京と同じなので何か特別の意味があるのだろうか?

正史である日本後紀には、桓武天皇が死んだとき東宮殿の上に血が灌がれ・・・と書いてある。古事記や日本書紀の時代なら分かりますが、この時代の歴史書、しかも正史にそんな意味深な文があったとは意外。まあ、きっと暗殺か何かをほのめかしたのでしょう。正史の場合は表ざたにできないことは暗示にとどめておくのが常套手段。

ではこのときの東宮とは誰なのか?桓武天皇があまりにメジャーなので、そのつぎの天皇なんて全く知りませんでしたが、それが後の平城天皇となった阿殿(あて)親王。なお、部下が坂上田村麻呂だというので、そちらの方がはるかに有名ですね。さらにあの怪僧・空海ともかなり親密な関係だったというから、これはおもしろそうです。

博学の小林先生によると、これは後漢書『水が血と化すのは殺戮が親戚にまで及ぶとき』とあるので、子供の平城天皇が父の桓武天皇を殺した・・・ということの暗示になるという。丁度、今やっている近肖古王の話みたいですなぁ~。(イ・サンでテスをやっていた俳優さんが悪役を演じています。)異母弟の第三王子を母子ともに謀反の濡れ衣?で殺したというから、これもそっくりな話。(近肖古王も危うく母と殺されそうになります。)

たしかに、安殿は親王とあって太子じゃないから、自分が天皇になるために暗殺したんでしょうか?本書ではその状況証拠や傍証をつめていくようだ。

次に、この平城天皇、暗殺したかどうかはおいておいて、わずか3年後に譲位をしたとある。うーん、これは権力争いに敗れたということか?日本の総理大臣みたいですなぁ~。

さて、一方の空海ですが、これも常識的にてっきり遣唐使だったのかと思い込んでいましたが、実は単に個人的に渡航した一人の学問僧にすぎません。そんな彼がどうして、後に最澄をしのぐほどのメジャーになったのか?しかも、帰国後、空海は平安京には入ることを許されていない!(だから、高野山のいなかにお寺をひらいたのねぇ~)

うーん、教科書に載せたい、いや、教科書に載せるべきお話が一杯ありそうなのね。


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ケータイの時代 [歴史]

スマートフォンなどという馬の名前みたいな携帯端末がでてくる時代になったが、ケータイの時代は今から1500年ほど前にもあった。

継体天皇。北陸(越の国)から招聘された遠縁の王族で、実に20年以上かかってヤマトの地に入ったという。伝説の応神天皇から数えて5世の孫というから、そもそも皇族ではない(当時の規定では皇族は4世まで)。ということで、日本書紀自体が王朝の断絶を自白している。しかも名づけて継体天皇とは、まさに血縁でないのに継いだということだからまさに王朝交代を物語っている。漢字の継という字もそういう意味なのだ。

では、継体天皇=オホドノキミとは一体何者なのか?有力な説が百済東城王。東城王の父は、百済蓋鹵王(ガイロ王)の弟である昆支(コンキ)。昆支は倭国に派遣されて在住しており、倭国で5人の王子を生んだ。そのうちの一人が東城王である。

日本書紀では、前天皇・武烈天皇紀4年で、百済書からの引用で百済王室の内紛を記載しているから、当然、これが次の天皇である継体即位の前振りになっているという。(姜吉云博士)なぜなら、日本の史と直接の因果関係のない記述を入れるはずがないからである

すなわち、東城王は本国百済のクーデターで失脚するが、生まれた故国の倭国へ戻って来た可能性が高い。

 


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俾弥呼(ヒミカ) [歴史]

片岡先生の本に問い合わせが殺到するのは、そこに書かれていることが全て真実に肉薄しているからである。そしてそれだけの説得力にあふれているからだ。馬券ファンにとっては的中こそが神である。レース展開や騎手の巧拙で決まる真剣勝負が競馬ならば、誰も馬券なんて買いませんわ。

それと同様に、日本史研究においても古田先生の多元的歴史学派が圧倒的な支持を受けているのも、まったく偏見やイデオロギーは無縁に真実を研究されているからだと思う。緻密な検証作業と、斬新な発想はまさに脱帽するのみで、読めば読むほど説得力があるんだよな~。

さて、一般にはなじみのない俾弥呼(ヒミカ)であるが、古田先生の新刊『俾弥呼ひみか』を立ち読みしてきた。(何しろこちらも2800円と財布に優しくないお値段なので・・・[ふらふら]

通常、卑弥呼の文字が用いられるが、これは倭人伝本編でもそうなっているそうだ。但し、これは中国ではよく使われる略字なのだ。本当の字は、三国志冒頭もしくは先行する歴史書のなかで既に書かれているので以降は省略されるというわけ。おなじみの高句麗も本当は高句なのと同様のことである。だいたい三国志自体が三国の略字ですからね。

そして、ヒミカの読みであるが、従来のヒミコは完全に間違いである。古来、女性に〇〇コという名前はないのである!ちびマルコや雅子などが女性の名前となるのは平安時代くらいなんですかね?中宮、定子や章子なんてのがいますからね。奈良以前は、小野妹子というようにあきらかに男性の名前です。

陳寿、唯一の誤り?~二倍年歴

司馬遷の『史記』に対抗して書かれた『三国志』。西方を極めた史記に対して、陳寿は東方南方を極めんとした。倭人伝にはピグミー族やアボリジニらしき異形の人種についての記述がある。だが、その正確無比たらんとした陳寿にも唯一のミスがあったか?

それが倭人の寿命である。倭人は長命であると。しかしながら、中国人と日本人で寿命が違うはずがない。陳寿は倭人伝中で、倭人には中国人のような暦の感覚がないと書いている。つまり、太陽暦を知らないために、秋分と春分で二回年をとるのである。これは、いまも神社のお祭りが春秋と二回あるのとつながっている。まるで天皇賞のようだ。[わーい(嬉しい顔)]

だとすると、日本人の年齢は半分にしなければならず、日本書紀で80歳あまりだった継体天皇は古事記に書かれているように43歳でちょうど合致するということだ。

この二倍年歴に対する認識は平安時代の日本書紀執筆官僚の中にもなかったようだ。だから、古代の天皇は長生きだったという誤った伝説を生んでしまったのではないか?しかし、150歳や140歳の天皇はいたが500歳や1000歳の天皇はいないのだから、半分にすれば高齢の天皇でも70歳台ということで常識的な線におちつくから古代の伝承は正確だったということでしょうなあ~。

因みに今の天皇が短命となったのは、ブス(イワナガヒメ)と美人(コノハナノサクヤヒメ)の姉妹のうち美人のほうだけを妻にしてしまったからだ・・・そうです。[わーい(嬉しい顔)]まあ、伝説としてはおもしろいのだが・・・。おそらくは百済官僚の創作か?

 


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ソドンヨから日本書紀に迫る [歴史]

敢無く新羅の伏兵に殺された百済聖王には二人の王子があった。上の王子は次の百済義慈王として即位。弟王子はその次の恵王となる。義慈王には太子(?)・阿佐王子がいたが、叔父にあたる恵王との王位争いに敗れ、大和の舒明天皇(田村皇子)として即位。

恵王と次の法王はともに在位期間が1年しかないという謎の王様だ。法王はその名の通り、仏法に帰依した王様であり、すぐに倭国へわたり聖徳太子のモデルとなったようだ。(その正体は、突厥のラルドウカーンか?)そして、その後を継いだのがソドン(薯売り少年)=武王である。この状況から考えるに、やはり武王は法王の子供とは思えない。

そのソドン=武王には、宝公主という娘とその弟があった。この宝公主が日本書記にいう宝皇女=皇極(斉明)天皇であり、その同母弟が孝徳天皇である。

さて、古代史の難問である天智天皇(中大兄皇子)の登場である。歴史書では、彼は舒明天皇とその正室・皇極天皇の倅というバリバリの聖骨(ソンゴル、サレブレッド)である。ならば、問答無用で皇太子であり、舒明天皇亡き後は天皇として即位すべき人物である。しかも、彼はヤマトの支配者であった蘇我入鹿暗殺の現場指揮官を務めるという大功があったのだから、文句なく天皇に即位すべきことになる。だが、実際には皇太子となったこともなく、実母とされる皇極天皇が即位し、その皇極は弟(天智天皇からみれば叔父)の孝徳天皇に譲位し、孝徳の死後は再び皇極が即位して斉明天皇となる。おそらく、このときにやっと皇太子として認められたようだ。

果たして中大兄皇子とは誰だったのか?しかも、彼は本当に舒明天皇と皇極女帝の息子であったのか?どう考えてもおかしいよね。

・・・この辺の事情を全てかっとばして(無視して)、小中学校の歴史教育は進むので、ネットに代表される右翼がはびこる原因となっている。日本書紀が実は、百済の歴史だらけだなんて、教わることはないもんね。

もう一度、整理すると・・・

百済武王には三人の子供があった。姉は宝公主。弟に後の百済義慈王。そして、そのまた弟が百済の大臣を務めた智積=後の孝徳天皇。

本国・百済の跡継ぎとなった義慈王には、たくさんの王子があったが、一人は豊王(璋)=百済最後の悲運の王。その弟の翹岐(ギョウキ)は日本に亡命したあるが、彼が中大兄皇子である可能性が一番高い。


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プリンスof筑紫 [歴史]

イギリスの世孫さまが結婚するそうだ。アンドリューじゃなくて長男のウイリアム王子のほう。お相手はケイト妃。父のチャールズは皇太子(プリンス・オブ・ウェールズ)と日本では呼ばれるが、イギリスは王国なので王太子と呼ぶべきだそうだ。ちなみに韓ドラでは、太子とよばずに世子(セジャ)とよぶのだが中国に遠慮してのことかもしれない。

プリンス・オブ・ウェールズの呼称は、13世紀に始まるという。イングランドがウェールズを征服したときに、王のエドワード1世は身重の奥方のエリナー妃をウェールズの居城に連れてこさせて、そこで王子を産ませた。こうして、見よ!この子供はウェールズで生まれて英語(イングランド語のことか?)も話さない・・・とウェールズの王だと宣言した。もっとも、当時のイングランド王家はノルマン王朝の後裔だから英語でなくてフランス語を話したはずですが・・・。

これた似たような話が日本書紀にある。嶋君(後の百済武寧王)だ。百済の王様が弟の軍君昆伎が倭国に赴く時に、側室を与えて、途中で男子が生まれたら送り返せ・・・と命じた。女性は筑紫(チクシ、ヤマトととも読む)の各羅嶋で男子を産んだのだ百済に送り返した。彼が武寧王である。こうして、武寧王は名実ともに倭国の相続権も主張できたわけだ。(倭は朝鮮半島南部と九州一帯のこと)

後に継体天皇は、朝鮮半島の一部を百済に割譲した。百済と倭国、フランスとイギリスの関係は非常によく似ている。その後、後発国のアメリカと日本が本国を凌駕した点もそっくりだ。


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この国のかたち~紀元節 [歴史]

邪馬壹国の卑弥呼の時代を遡ること約150年ほど前だろうか?

同じ北九州・筑紫日向(チクシヒムカ)の宮殿で、密かに?大望を企ている兄弟たちがいた。長男の名前は五ヶ瀬命(ごかせのみこと)。末弟の名前は狭野命(サノノミコト)といった。おそらくは、王族の分家筋であったろう彼らは、将来に見切りをつけて新天地を求めようと画策していた。広島県安芸のタケリ宮~岡山県吉備の高島宮と移動していったらしい。おそらく親戚筋を頼っての居候生活であったろう。

この間、故郷を離れ10年以上も経過していた。だが、自身の所属する領内ということも戦闘はなく平和であった。いや、着実に軍団の増強をなしていったのかもしれない。彼らは、ついに意を決して敵国の地、銅鐸文化圏である近畿(大阪方面)への襲撃を開始した。

自慢の海軍を率いて、一気に大阪湾へつっこんでいく五ヶ瀬軍団。しかし、敵も強い。当時の大阪湾は深く今の大阪城のあたりまでいり込んでいた。日下の楯津の地で、軍団は一敗地にまみれる。たまらず、船団を率いて脱出する。しかし、湾の出口である今の南方(みなかた)辺りは、両岸が狭く左右から弓を射掛けられる。哀れ、軍団の長であった五ヶ瀬命は矢傷がもとで最期をとげる。リーダーを失った軍団は、悲しみに打ちひしがれたであろう。命が死んだあたりをそれに因んでか血沼の海と称する。

※解説 軍団が進入する際には、南方を通らず、密かに迂回していったん船を陸地に上げ、引きずって目的地付近までいった。だが、逃げる際には、その余裕がなく狭い海峡を通らざるを得ない。

さりとて、もはや引くべきも地もなく、軍団は紀伊半島を遠く迂回して南端の紀伊・熊野の地へ上陸する。長兄五ケ瀬を失い、次兄、三兄不在の軍団を率いたのは末弟の狭野命。敵(ナガスネヒコ)は手強しと見た軍団は、作戦を替え以後はゲリラ作戦に徹する。

内通者、協力者(カラスだったか?)を得た軍団は険しい熊野山中を越えて大和地方に迫る。やることといったら、和解の酒宴を開いては騙まし討ちの暗殺ざんまい。おいおい、ちょっと自慢できないよなぁ~。なお、勝利後の侵略軍の報復は苛烈を極めた。兄の仇とばかりに、かの地を殲滅したのであろう。弥生時代後半、大和地方からは、銅鐸の遺跡がいっさい出なくなった!つまり、旧政権の祭器であった銅鐸をすべて破壊したということであろう。

この大和平定の伝説のリーダー、狭野命、彼こそが後に神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)といわれる人物。彼が即位した日が旧暦の1月1日だったらしいですね。その後明治にちょっと改変して、2月11日が紀元節となったそうだ。

神武神話は決して物語ではない、真実の歴史・考古学がそれを証明している。


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センター試験2011 [歴史]

昨年は世界史で、朝鮮の首都の問題が出た。私は、龍の涙を見ていたので知っていましたね。実は、最初から漢陽(ハニャン、ソウル)ではなかったんだよね。[わーい(嬉しい顔)]

以前、中国ドラマの射鵰英雄伝をやっていたころは、靖康の変が出たしね。

今年は、善徳女王から新羅~三韓の問題あたりが出るか?

実は、日本書紀・古事記には当初から新羅のことが頻繁に出てくるが、百済や高句麗は後半まで出てこない。(スサノオは新羅に逃げて行った)

日本の歴史を書いたはずの歴史書に、(全体を通して)新羅や百済の話ばかりでてくるってことは、新羅・伽耶が日本のルーツだったとしか考えられない。少なくとも大和朝廷は伽耶~百済と一体ということなんでしょうなあ~。

ただ、新羅・百済を錯綜しているので、イマイチ理解できなかったけど、本場朝鮮でも、百済武王(ソドンヨ)の妻が新羅の善花(ソンファ)公主=善徳女王の妹だから、百済の王様は新羅王室の血統も合わせてっているわけなのですわ。

北朝である魏に朝貢した卑弥呼の邪馬壹国は、反伽耶系だったようだ。

 

それにしても、日本史の教科書・問題集はひどい。のっけからデタラメばかりだもんなぁ~。


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読み人知らず・・・ [歴史]

〇〇天皇の墓が発見!とか卑弥呼の墓か?!なんてデタラメな記事が飛び交う新聞・ニュースには、正直あきれて物もいえませんが、まあ、バカドモは放っておいて真実の歴史の旅を満喫しよう。

日本書紀が先行する歴史書(『日本旧記』『百済三史』など)を切断・結合してつくられたのは周知の事実。一通りの説しか載せない『古事記』をは違って、日本書紀は『ある文いわく・・・(一書に曰く)』の形で本文意外にも何通りもの説を載せている。

さて、万葉集や古今集はどうかというと、やたらに『読み人知らず・・・』ってのが出てくる。これは本当に知らないのではなくて、言ってはいけない名前だからわざと隠しているのだそうだ。たとえば、有名な『君が代』の詩が自体からして読み人知らず・・・だというから笑ってしまいますなぁ~。

そらそうでしょうなぁ~、通説では日本に漢字が入ったのはなんと6世紀だと言い張るのだから、ずっと以前の人が漢字や文字を使って和歌を書いていたというは矛盾しますわなあ~。もっとも、当時にしても文字を知っていて和歌を詠むなんてのは当然、上層階級の人間だけだから防人とか庶民の詩があるってのはウソですわなあ~。防人=倭国の武将クラス、庶民=倭国の貴族・王族ってことでしょうなぁ~。なんでも防人といっても7世紀の近畿地方の人の詩はないというから、大和朝廷は一体何をしていたか?分かろうというもんだ。

さて、君が代とは何か?古今集の賀歌に『読み人しらず』『題知らず』で収録されている。

平家物語では、平忠教の歌が『読み人知らず』で載せられているという。つまり、滅んだ平氏、敵国の平氏であればこそ名前を載せることできなかったわですなあ。ただし、忠教の場合は題名だけは『故郷花』という題名が残されているという。ところが君が代の場合は題名すら残されていない。

大唐帝国に逆らって、東の天子を名乗った倭国の国王は、高句麗・百済の王と同じく長安へ護送されてしまった。その倭国の本拠、博多湾岸では今もこの君が代が歌われるているそうです。『吾が気味』が『千代』(福岡県庁のあるところ)から船にのって、志賀島(金印で有名)にお越しなる・・・という歌ですなぁ~。

有名な隋書・国伝(タイこくでん、倭国の蔑称か?)にも、ハッキリと俀国(倭国)こでは王はアハキミ、王の妻はキミとある。東アジアでは新羅の善徳女王が女性君主のハシリだが、実際には卑弥呼やそれに先行する形の女王伝説があったのかもしれない。だからこそ、ここ一番で卑弥呼や壹与(イヨ)が擁立されたのかもしれない。先の福岡県千代の地は、実は差別部落があるという。ということは、かつての古い王朝(九州王朝以前かもしれない)の名残なのかもしれない。

ところで、結婚式で有名な高砂の歌は九州阿蘇の神主の歌だそうだ。九州はもとより住吉神社の本家(博多湾岸の住吉大社)であるが、その神主さんが播磨の浜で二人の老夫婦に会う。彼はは実は松の精で、二人の乗った小船を追いかけていくうちに摂津の住吉に着いた・・・という話。

おきな(翁)=摂津・大阪住吉 おうな(嫗)=播磨・高砂

ということなのだが、これはどうも違うようだ。大阪と播磨は目と鼻の先だからね。

高砂の歌は最初以外知りませんが、その趣旨は時間も場所も遠く離れていても二人の心は永遠ですってことらしい。つまりガラスの仮面の紅天女状態なわけですなぁ~。[ハートたち(複数ハート)](二人の翁と嫗は松の木の精だという)

実際、嫗も『高砂=上代の万葉集の昔のこと』と言っているそうです。つまり、この歌の本当の趣旨はやはり、九州糸島・博多湾岸のことなのだ。タカスナと読まずにタカサゴ。高砂族とは九州から離れた台湾・中国の高砂族のことらしい。本来は女性が男性に呼びかける歌なんですなあ~。そういえば、古事記でも最初に声をかけたのは女性のイザナミであった。古代は女性が中心だった名残といわれていますね。

古代日本語としては、タカサゴとは太郎のタ、神聖な水のカ、地名のサ、男子を意味するコ。つまり、神聖な水の土地(海辺)に住む男の人・・・という意味になるそうです。だから、女性が男性に向かってタカサゴやと声をかけるんですなあ~。

住吉はスミヨシでなくてスミノエと発音する。

まあ、結婚式でこの歌を歌うひとは、ひとこと薀蓄を語るときっと感動を誘うと思いますね。いや、しかし、昔は常識であったこの歌も現代では歌える人はまず居りますまい。だいたい、難しいでしょうしね。代わりに、高砂の本当の意味を説明してお祝いの言葉にするとよいでしょう。


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『景初三年』もなかった! [歴史]

原文の『景初二年』がなぜ『景初三年』に改定(捏造)されたのか?

年号の一年ぐらい・・・どうでもいいような気がするが、なぜこの問題が大きいかというと、日本国内で発見された銅鏡(教科書に載っているアレ・・・です)に刻まれている年号が景初三年だから・・・ですね。

(原文)景初二年六月、倭の女王、太夫・難升米等と遣わし、(帯方)郡に詣り、(魏の)天子に詣りて朝献せんことを求む。

江戸時代の碩学、新井白石も『遼東の公孫淵が滅んだのは景初二年八月だから、まだ(倭から中国へのルートがなかった)この時期に使者が行ったというのは納得行かないんだよねぇ~』と書いている。つまり、魏と公孫氏側で戦闘状態にあったから、不審だというわけです。いや、ありえない!・・・と言い切っているわけです。その程度の根拠で、歴史書にケチをつけるとは学者の態度だと思わないが、この伝統は今も日本の右翼学者たちに受け継がれているようだ。

これにより、後世の学者たちは二年でなくて三年の間違い(ミスプリント)だろう?・・・と確定させてしまったのが実情です。

だが、最近まで『常識』とされたミスプリ説だが、根拠に乏しい。だってそうだろう?別に戦乱中だからといって使節が行き来できないとは限りませんからね。まして、公孫氏側が負けたのが8月だから、6月といえば、大東亜戦争でいえば、東京まで空襲された時期(笑)ですから、日本、いや公孫氏側の敗勢は火を見るより明らかだったかもしれない。だとすれば、外交上、いち早く朝貢を願い出るのは小国のとるべき常套手段だからね。

しかも、三国志の記述を見ると、この倭(邪馬壹國)側の使者を、帯方郡の太守は、魏の都まで送り届けてくれた。・・・とある。つまり官吏と護衛部隊をつけて送ってくれたと特筆されているのだ。このての護衛記事はその後、一切ないから、ますます、これは戦乱中のことだと思われるんだよねぇ~。

実は倭からの献上品は、男奴隷4人、女6人、布二匹・二丈という粗末なものだった。ところが、これに対して魏の明帝は大いに喜んで、けたはずれの下賜品を与えた。また卑弥呼個人に対しても、錦、白絹、金、刀、銅鏡100枚、真珠、鉛丹とこれまた豪華なお土産を与えている。北朝鮮の将軍さまがもらったマツタケどろこの騒ぎではないのだ。

およそ、中国4000年の歴史において、これほどの豪華商品をもらった國はないであろう。

きっと、戦略的に有効だったという以上に、何か特別な理由があるのではないだろうか?やはり、倭国がもたらした東南界の情報が有益だったのだろうか?

さらに、このときの恩賞だが、与えるという記事は12月項にあるが、実際に品物が送られたのは2年後の正始元年であったと記載されている。つまり、やはり、このときは戦乱の影響で、一時保管されており、戦乱終了後、改めて送り届けられた・・・と考えれば辻褄が合うのだ。

このとき、帯方郡の新太守は、部下を遣わして、詔書・印綬を報じ、倭国に詣り、倭王に拝仮し、報償品を賜う・・・と記載されている。実際に、倭国(邪馬壹國)に来ているわけだから、位置が不明なわけはない!!

実際、景初2年12月に魏の明帝は病の床に就き急死する。そして1年間の喪に服したので行政は一旦停止している。ゆえに倭国への下賜品が一時、封緘されていたと考えるのが常識であろう。

まったく、中国の歴史家もいいかげんなもので、後世の『梁書』において、早くも『景初三年』という改定が行われている。つまり、戦乱中だから二年は無理だろう・・・という安易な改定である。

 

 


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