SSブログ

平安京とユダヤ教 [歴史]

今日は昨日の続きを読みにブックオフまで行ってきた。あっという間に小一時間たち、一階のスーパーで買い物したら駐車無料の1時間ギリギリでした。

競馬評論家の井崎脩五郎さんは、イサキとよませる。もちろん、本名ではない。これもアブラムの息子イサクに因んでいるらしい。では、名前のシューゴロウは何なのか?イサクはアブラムの正妻サライの息子だが、『年老いており、妊娠したら笑ってしまいます』と言ったので、神の力で妊娠して生まれたのでイサクとなづけたという。ガハハッと笑う井崎さんのキャラは名前のとおりということなんですね。因みに、聖書によるとサライは90歳で産んだとあるから、二倍年歴(春分と秋分に年を取る)ですから45歳ぐらいだったでしょう。満90歳ではそもそも妊娠の話題にすらなりえません

で、そのイサクの息子がヤコブ(=イスラエル、双子の弟)で、ヤコブの子供12人がイスラエル12支族とのこと。もっとも、後に北のイスラエル王国が滅んだので、実際には南のユダ族とベニヤミン族しか残っておらず、よって今ではユダヤ人とかユダヤ教といわれる。

京都の平安京もエルサレム(平安の町)と同名だという。これを作ったのは秦氏といわれ、イスラエル人だったという説がけっこうある。また、京都太秦(うずまさ)のウズマサはキリストのことだという。なんでも、八幡(はちまん)神社もヤハタの当て字ですが、ヤーウェに因んだものだと。

秦氏、太秦の秦はローマ帝国=大秦国からきているという。始皇帝の秦もその流れを汲んでいるという説があります。ローマ⇒秦⇒日本とシルクロードを渡ってきたというのも十分にありえます。ではん、なぜウズマサと発音するのか?実は、イエスの時代にはすでにヘブライ語はなくなっていましたから、イエスもアラム語(ギリシャ語の方言だったような)で話していました。イエスではなくイエシュシュのような発音だったらしい。イシュ・メシャ(イエス・メシアの意味か?)がシルクロードの移動により徐々になまってインドあたりではユズ・マサ、さらにウズマサとなったという。

1$札のピラミッドと千円札の野口英世の異様な左目の共通性。さらに1$札には暗号でMDCCLXXVIと書いてあるそうな。ローマ数字で1776です。なんだ独立記念の年号か思われますが、最後の6=VIをV・Iと分ければ、5月1日でこれはダビンチコードで有名なイルミナティの創設記念日だといいます。(1776年の5月1日)他にも、1$札には意味深なラテン語も書かれているそうな。

中央競馬のフルゲートが18頭なのも悪魔の数字666=6+6+6=18だからかも・・・。武豊がアドマイヤベガで二度目のダービー制覇したとき、なぜかダービーは5月末でなくて6月6日でした。武の登録番号は666番。競馬場におりた堕天使であったか!本来のダービーは例年5月末の第3回東京4日目ですが、このときは第3回東京6日目。しかも66回ダービー!さらに恐ろしいのは、平成11年は999666の裏返しではないですか!

さらによく考えてみると、ダービーの1着賞金1億3200万円という半端な数字も1+3+2=6です。5着は10分の1の1320万円ですから同様。さらに3着は3300万円で3+3=6。現在は1億5000万円でやはり1+5=6。二着はズバリ、6000万円。

そしてダービー自体が2400mという2+4=6という距離なんですな~。やはり、日本は古来よりフリーメーソンの国だったのか!

 


nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(1) 
共通テーマ:学問

ユダヤ教と神道 [歴史]

よく超常現象のコーナーなどにあるこの手本はバカにして読まなかったのですが、帰化人といわれる秦氏がユダヤという説を読んで、興味をもってちょっと見てみたら、確かに説得力があります。

だいたい、全ての日本人いや肝心の神官ですら、神社の鳥居は何なのか説明できないし、御神輿(おみこし)の起源や意味を誰も知りません。こんなバカな話があるでしょうか?

そういえば、7月にギオンゴールドが激走しましたが、祇園祭り7月17日)はシオン祭り(=ノアの箱舟の洪水が終わった日)と同一のものだそうです。私は関西人でないので、全く祇園祭のことは知らないのですが、そもそも祇園(ギオン)という地名自体がおよそ日本語ではないでしょうから、シオン⇒ジオン(ZION)⇒ギオンとなったというのはかなり説得力あります。そういえば、最近は紫苑ステークスなどというレースも創設されている。

鳥居が赤いのはモーセが、羊の血で塗ったからだそうです。なんでも、プレデターみたいな謎の敵(殺戮の天使)が襲ってきたらしいですよ。なんか、スーパーナチュラルな世界ですね。では、なぜ日本の神社では羊の生贄がないかというと、生贄を捧げることができるのはエルサレム寝殿のみで、国外のユダヤ人は生贄を捧げることは許されないんだそうです。ユダヤ語のタラム(門)⇒トリイになったのか?

そうなると、日本の御神輿はやはりアーク(聖櫃せいひつ)だったのか?ユダヤ軍が持っていた謎の箱(聖櫃)とはいったいなんだったんでしょうね。ドラマ足利尊氏で見た錦の御旗も、その流れですね。

古代史学の面からも、宗教の面からもヤダヤ教との関連が色濃くでできたということは、決して眉唾の話ではないと思いますね。


nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

中大兄皇子の謎 [歴史]

中大兄皇子は3度も皇太子(東宮)に冊立されたという異様な経歴の持ち主である。

ということは、後に経歴を詐称・捏造したと考えるのが自然である。本当に舒明天皇の息子であり、皇極=斉明天皇の息子であるサラブレッド(聖骨)ならば、すんなり天皇になったはずである。しかも、大化の改新という一大事業をなした最大功労者なのに、それでも天皇になれないなんて不可思議すぎる。

舒明天皇が死んだときに弔辞を詠んだという16歳の開別皇子とははたして、誰なのか?歴史から抹消された人物か、あるいは捏造された架空の皇子なのか?通説は、当然、この開別王子が中大兄皇子だと言い張るのだが、それはムリだろう。なんで名前が3つも4つもあるのか?

まあ普通に考えれば、中大兄皇子は舒明天皇とも斉明天皇とも血縁関係がなかったということになる。

百濟義慈王の息子・翹岐は日本に天下りしてきており、当時は大使として旧敏達天皇宮に住んでいた。蘇我氏にも歓待されていた。

また皇極⇒孝徳⇒斉明と弟・孝徳天皇は姉・皇極(斉明)からもらった皇位を再び姉に返したということは、自分の息子(有馬皇子)を太子にしてはまずい事情があったからであると考えるのが自然。その結果、斉明は息子?中大兄皇子をようやく太子にすることができた。

中大兄皇子という名称は、皇極紀以前には登場しないし、中大兄皇子が出現してから、翹岐は出てこない。推理小説風にいえば、90%がた中大兄皇子=翹岐は同一人物ではないかと思われる。

また、よく言われることだが、皇極天皇=斉明天皇という通説も非常に不自然だ。本当は別人だったのではないか。斉明天皇は突如、狂ったように(対唐防衛戦争の防備のために)工事を始め、民衆は怨嗟の声を上げたという。これは九州倭国王の記事をパクッて記載したいというのが一番納得できる説だ。倭国と百濟は同盟国だったからだ。大和朝廷(日本)は倭国を裏切って唐・新羅と結託したのではないか?

 

 


ケベクの時代~日本書紀 [歴史]

第23巻(舒明紀)末尾

(641年)10月、天皇が百濟宮に移られた。この月に崩御された。宮の北で殯(もがり)を行った。これを百濟の大殯(おおもがり)という。このとき16歳の東宮・開別皇子が誄(しのびこと)を述べられた。

第24巻皇極紀

舒明天皇が没して、東宮ではなく皇后が即位するという異常事態となった。これが皇極天皇である。

あくる年(642年)正月、即位。蘇我蝦夷を大臣としたことは従来どおりである。その息子の入鹿自ら国政を執り父より優れていた。ために、盗賊さえも道におちているものを拾わなかった。

これは、よほどの善政を敷いたということなんでしょうね。訳では、入鹿が父の蝦夷をしのぐほどの権勢であったと書かれていますが、それだと意味が通じませんね。だって二人は親子ですから対立してたわけではないでしょう。二人は表裏一体のわけですから。ここは、盗賊さえも恐れたと書かれているのですから、統治能力が父親以上に優れていた(原文は『威は父に勝る』)と訳すべきではないでしょうか?少なくとも、これが国語のテストならそう解釈しないとペケですわなぁ~。そうでないと前後のツジツマが合わない。つまり、総理大臣である父の代行として、自ら書類に目を通したり、現地視察をしてバリバリ実務をこなし、その威光は盗賊さえも恐れるほど父親以上だったということなんでしょう。だとしたら、大化の改新で暗殺されるようないわれはないですなぁ~。

問題はこの後。

1月29日に百濟からの使い(あるいは百濟に派遣された使い)が言うには、(彼は筑紫にいる弔使に先駆けて大和に来たの)

『百濟国は、先の天皇への弔使を遣わしました・・・。今、百濟は大変、混乱しています。』

これが日本の正史だろうか。記事は、百濟のことが中心となっているのだ。ただ、残念なことに、その内容が具体的に書かれていない。ソドンヨ=百濟武王が死んで、息子の義慈王がすんなり王位にはつけなかったということなのだろうか?ドラマのように義慈王は本当に新羅ソンファ姫の息子で百濟貴族たちが反発したのだろうか?

まあとにかく、その報告を受けて日本側は百濟の国情を調べるために、2月2日に使者を(筑紫へか?)派遣した。(相手の)百濟からの弔使からの返事には・・・

『百濟国主(国王より格下の表現か)が(天皇に)申し上げるには、塞上は常に悪さをする。天皇にお願いして帰国させるように申し上げてもお許しくださらないだろう。・・・といいました。』 

と、まるでわけの分からない意味不明の答弁なのだ。塞上が誰かは別として、まあ、今は日本にいるということですな。義慈王は本当はその男を側近として呼び戻したいと思っている・・・としか解釈しようがないのだが、そんな悪いやつをなぜ呼び戻したいのか意味不明。しかも、これは百濟の国情がどうなっているかの回答に全くなっていない!

さすがに正使サマは立場上、奥歯に物が挟まったような物言いしかできないのだが、彼の部下たちが言うには

『昨年の11月に大佐平の智積(ちしゃく)が死にました。また崑崙の使いを海に投げ捨てました。明けて、今年の正月に国主(=義慈王)の母上がなくなりました。また、弟王子児翹岐とその母娘女子4人、高名なもの40人あまりが島に放たれました。』

と、少し具体的な話になってくる。総理大臣と王の母が死んでいるのですから、これはかなり生臭い話です。ケベクでは、サテク王妃の父は大佐平の積徳(チャトク)といいますから、この死んだ智積(一字違い)がモデルなんでしょうか?しかも、義慈王の母は新羅ソンファ公主。ほんと、良く出来たドラマですね。当然、二人が偶然に自然死したということはないでしょうから、当然、この間の百濟大混乱という重大事件が裏にあったはずです。まあ、だから正史に記録されたのでしょうが・・・。

さらに日本側にとって重要なのは、後半部分。百濟から派遣あるいは左遷させららた翹岐という人物。日本書紀皇極紀では、この後この百濟王族・翹岐が中心に話が進んでいきます。

弟王子児の意味は?

この辺が全く判然としません。王弟ならば王の弟で、ケベクのキョギ王子(異母弟)みたいなもので話はスンナリいくのですが、弟王子って誰よ?!ってことなんですよね。しかも、どこで区切るのかわからんのです。①弟である王の子児、②弟である王子の児、③兄(=太子)の弟王子の児なのか?

①では子児=息子の意味だといいます。②③は王子=プリンスと一般的な解釈。ただ、いずれにしろ、弟って何?という疑問は残ります。一番納得できるのは、皇極天皇から見て弟である王あるいは王子という解釈ですが、それでも、じゃあなぜ百濟国主(=義慈王)は弟でないの?ということになります。

なお、後の高句驪から報告記事でも、この弟王子という単語がでてきます(弟王子が死んで、さらに高句驪王を大莫離支(テマクリジ)のヨン・ゲソムンが殺した)。ということは一般的な単語だったのか?あるいは皇極天皇は高句驪とも血縁関係があったのか?当時の半島・三韓(倭・日本を含む)の王族は中世ヨーロッパのように血縁関係が交錯していたと考えられている。

さらに、その翹岐の母妹女子4人も問題です。これも①母親+妹3人、②同母の妹4人、③同母の妹+妻(女)+子供たち、などといった解釈が可能です。一般的には②あたりで訳されるのが一番多いようですが、40名以上の一族郎党引き連れての出国ですから、母親がいたとも十分ありえます。また、後の記事で、翹岐の子ども+従者が死ぬというきな臭い記事もでてきます。このとき、翹岐と妻は葬式をしたが死んだ子どもの顔を見なかったという風習の違いも書かれているのです。(さらにいえば、書記はこのことを畜生に劣る非人道的行為だと非難しているのです。だが、これは朝鮮と日本の風習の違いですから、筋違いの非難だと思いますが・・・。高句驪・百濟・新羅でも親子・夫婦・兄弟は死体を見ないという風習である。)まあ、いずれにしろ、翹岐には妻とそれ以外の子供がいたとハッキリ書かれいます。だから、通常いわれるような政変による島流しという解釈もありえますが、宗主国百濟から倭国への派遣・天下り的な意味も色濃いと思いますね。当時は新羅との関係が悪化していますから、対新羅・唐との関係に対応するためには日本側を味方に引き込むことが重要だったはずです。

その後、翹岐は有力者である蘇我氏に歓迎されていきます。しかも、子どもが死んだのになぜか相撲見物させられたりするんですよね。喪中の人間にそんなことさせる大和朝廷の方こそ、非難すべきだと思いますがね。しかも、子どもと従者がほぼ同時に死んだというのは自然死ではない可能性が非常に高いでしょ。

結局、この母妹女子4人というのは、⑤母+妹+妻+4人の子供、あるいは⑥同母の妹+妻+4人の子供たちと考えるのが自然ではないでしょうか?妹とその娘たちというような考えはちとムリがあるように思います。女というのは天皇の記録なんかでも妻という意味でよく使用されます。現代のように女子という意味では使わないですね。ふつうは妻+子供の意味のはずです。

 


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:学問

大岡越前の妻 [歴史]

御台所を調べたついでに、大岡越前も調べたみたら、なんと越前の妻は雪江さんではなかった!

しかも、越前は江戸に来たときには既に結婚していた(養子先の娘と)。しかも、越前は忠高(片岡千恵蔵)の四男ですが、養子に出されたのですから、忠高は父上ではないわけです。

 


nice!(2)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

将軍家御台所 [歴史]

大岡越前・第一部最終回にて、雪江が御台様という下りがあったが、8代将軍吉宗の正室・御台所って今までドラマで一度も見たことない。

で、調べてみると、吉宗の正室は皇族の娘の理子王女(まさこ)で、死産によりわずか18歳で死んでいる(1710年)。吉宗が将軍になったのは1716年(享保元年)で、その後正室はいないから、御台所は不在だったはず。

ただ、2代将軍の妻である有名なお江与の方さまも正室扱いにはなっていないんですね。秀忠の正室は小姫(おひめ・・・織田信長の次男信雄の娘)となっています。もっともこれも6歳で死んでいますから名前だけの政略結婚。

日本の場合は、朝鮮ドラマと違って、ニ代目・三代目の奥さんは正室扱いされないんですね。

当時の側室は御台様とは呼ばれなかったのでしょうか?大奥などのドラマでは、お江与の方は御台様と呼ばれていますが・・・。


nice!(2)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

孔子の二倍年歴 [歴史]

古代は現代のような太陽暦が一般的にはなかったから、二倍年歴や4倍年歴、12倍年歴があった。

先日、古田先生の講演文章を読んで、孔子の年齢も二倍年歴である可能性を知った。

いわゆる、我15歳にして学に志す。・・・というやつだ。確かに、15歳といえば現代ですら中学卒業程度であるから、ちょっと遅すぎる!まして、何時の世でも、神童といわれるような天才少年ならば、その半分の7歳くらいで学に志すはずだ。

その観点からいくと、自立したのが15歳、不惑は20歳、天命を知ったのが25歳ということになり、これならある程度、納得できる年齢なんですなぁ~。それにしても、漢文なんかの授業で、この孔子の年齢が問題になったことはないですなぁ~。誰か、オカシイ・・・と思った人はいなかったんかいな?

儒教には『春秋』という本があるくらいだから、本当に春と秋に年をとる二倍年歴だったかもしれませんなぁ~。

明日は節分。

 


nice!(2)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

親呉倭国という存在 [歴史]

古田先生の学説はますますご発展。昨年の講演から新たなテーマ。

消えた90国

魏史倭人伝がかかれる前、漢の時代には倭国は100ヶ国以上であった。だが、三国志中の魏史では30ヶ国となっている。一般的には、戦乱の過程で合併・併合・統合されていったのだろうと解釈されている。だが、実際、そんな証拠はどこにもない。これは、とんだ思い込みだったかもしれない。

古田先生はこの点に着目し、三国志を見直したという。三国は蜀・呉・魏の順で滅んだ。よって三国志も各国の滅亡まで書いている。呉が滅んだのは280年。編者の陳寿が死んだのもその後、297年というから、まさに三国滅亡の歴史を目の当たりにしている人だ。

親魏倭国として北朝に朝貢したのが30ヶ国。全部で約120ヶ国だったとして、残りの約90ヶ国はどうなったのか?

蜀は滅んでいるから、倭国諸国は、南朝に付くか魏(西晋)に付くかで迷ったはずだ。倭人伝にあるとおり、邪馬壹国とその同盟国30ヶ国は親魏を安全保障の方針としていた。対して、邪馬壹国連合に敵対する国々、例えば約20ヶ国ぐらいが親呉倭国だったと仮定すると、どっちつかずの国が70くらいあったのではないか?

265年に西晋が魏を継承する。この翌年266年に、邪馬壹(一)国の壹与(一与)がまさに、名前のとおり、二心ない忠誠を誓って朝貢したわけです。そして、それ以後、例の『絶つ』という状況=この後、中国側に倭国は登場しなくなる。

だが、三国志全体は終わっていません。280年に呉が滅亡する。このこともちゃんと書かれているわけです。陳寿は生きているわけですから。さて、呉が滅亡し、魏を承継した西晋の時代となった。邪馬壹国諸国(親魏倭国30ヶ国)勢は、がぜん力を増したでしょう。前任者の卑弥呼は魏に、後継者の壹与は西晋が成立したときから朝貢しているわけですから。一方、旧親呉勢側やどっちつかずのコウモリ諸国はそれなりの対応に迫られたはず。こうして、倭国諸国は再び大乱の時期を迎えたのではないか?

ただ、その後の歴史で邪馬壹国は、二度と登場しない。なぜ、朝貢してこなくなったのか?日本列島内で起きた新たな大乱の結果、邪馬壹国は滅んでしまったのか・・・?

その後、倭人が歴史に登場するのは、はるかに時代の下った5世紀にの五王、7世紀の隋書に登場する俀国(タイコク)が登場することになる。ヤマ・・・と名の付く国は登場しない。


nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

社会の闇~ミレミアム三部作 [歴史]

親ナチ公安の暗部という二つの社会の闇を描いたミレミアム三部作。

新ナチ(ネオナチ)は、現代の親ナチ思想でユダヤ人や外国からの移住者を腐った豚と称する差別主義。作者のステイーグ・ラーソンが言うように、こういった差別主義者は酒によった不良少年たちではなくて、ごく普通の青年が親ナチになっていく・・・とうのが恐ろしいところである。つまり、こういった差別主義は社会が生み出していくものなのだろう。特別な背景が必要なわけではない・・・とラーソンは語っています。

日本には差別なんてない・・・と一般的には思われている。あったとしても、それは江戸時代までで、その起源はせいぜい鎌倉時代くらいだろう・・・という感じになっているといわれる。だが、そうではないらしい。丁度、古田先生の講演記録を読んでいて、興味深い話を見つけた。

天皇陵といわれる古墳の周りには差別部落が多いという。これは、被征服民たちが墓守として配置された名残である。韓ドラでも、高句驪のチュモン王が楽浪王国を滅ぼしたあと、彼らを墓守にしたという場面がありました。(チャミョンゴ)

古事記でも、弟の山彦が兄の海彦をやっつけた後、海彦の子孫は皇室に使える=召使になったいう起源が語られています。こういった被征服民たちが奴隷化していくというのは、世界中にある話のようです。

面白いことに、民俗学者として有名な柳田國男は、このような民間伝承(艶笑譚など)をことごとく排除した。まあ。これは時代の制約ということもあったので仕方ないだろう。(当時の大逆事件。妻の父が裁判官ということもあって、若いときはバリバリの社会主義的農本主義を唱えていていた勢いは姿を消して、国家にとって都合の良い民俗学を作り上げた。)つまり、日本書紀の思想に反するような資料・伝承はことごとく排除していった。まあ、だから勲章を貰えた。良心のある学者だったら、死刑になっていたでしょう。この頃は、室町時代の南北朝を言っただけで、国会議員の首が飛ぶ時代だったといいます。(つまり、北朝なんて存在しない!・・・という立場)

差別民というと本場はヨーロッパのようだ。ジプシーをロマとも言うようだが、このロマをフランスは国外へ追放したという。明らかに人権宣言の趣旨に反している!・・・ということなのだが、それ以前にEUの規約に反しているのに、各国も表立って反対はしなかったという。アメリカも独立宣言の精神とは名ばかりで、黒人奴隷もインデイアンも差別されている。

これは意外なことだったが、日本の東北にはほとんど差別部落がないそうです。(ただし、福島県には、例外的に外部から連れてこられた部落があるそうです)。私も新潟市の近くの出身ですが、差別部落は聞いたことがありません。まあ、地域の中で多少の差別部落はあるようですが。山形にいたっては、まずないそうです。やはり、同和問題の本家は近畿=天皇陵の周辺のようですね。

ドラゴンタトゥーの女の作者スティグ・ラーソンは、こういった社会に潜む、差別と腐敗をなくそうと、その生涯を賭けて戦った勇者だったと思いますね。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ちはやぶる② [歴史]

早稲田だか慶応の応援歌が『あらぶる』かなんかだったと思うが、そのせいか『ちはやぶる』もなんかあらぶる神様にかかる枕詞のように思えたりするが、それは勘違いだろうか?

まあ、当時は万葉仮名なので、知波夜夫流のような当て字だから、その意味・語源は分からない。当然、漢字の訓から意味を類推はできない。しかも何種類もの書き方がある(千羽八振など)ということは、完全にABCのように音を当てているだけという可能性が高い。もしも訓で考えると、最初のやつなんて、なんか夜に夫が波のように押し寄せてくる=まさしく、ちはやぶる!ってイメージのセクシーな当て字だ。

なお、万葉仮名を大和仮名という用語もちょっと語弊があって、本場中国でも外来語を漢字で音訳するので、別に日本人の発明とは言えない・・・。[ふらふら]

さて、万葉集には源・万葉集があったという可能性が高い。さらに、防人(さきもり)という言葉からもある推理が生まれる。古田先生によると・・・

防人というからには、本拠地の先(国境)にあるわけだが、なぜ、大和(奈良)朝廷の防人が九州・福岡にいるのか?大陸から軍勢がくるとしたら、越の国(福井あたり)とか、出雲、あるいは船で瀬戸内海を侵攻してくるだろう。事実、北朝鮮の難民も海流にのって島根あたりに来るんではないかな?北九州だけを防備して(安心して)いるなんて間抜けな軍隊がどこにいるんだろう?

ということで、やはり防人という存在からも、北九州には邪馬壹国以来の倭国の首都があったとい説が浮上せざるをえない。北九州の沿岸を守る防人がいるということは、本国はその付近の筑紫(チクシ・・・当時の発音)以外に考えられないからだ。苗字に山や川があるが、当然、山や川の先にあるのであって、奈良から1000キロ先離れたサキモリというのは考えづらい。それが常識というものだろう。後に、大和大王家が倭国朝廷を併合したので、文化的には後進国である日本が倭国の万葉集や古事記の記事をパクッたと考えるのが合理的な解釈だ。歴史的には同時代に、朝鮮半島でも後進国の新羅が百済・高句驪を併合した。謎の重要人物・柿本人麻呂なども本来は倭国側の人間であったと考えると、多くの謎が解けていく。

ところで、防人とういのは東国から徴兵された兵隊さんだということになっている。彼らが和歌を詠んだということは、もうその当時で九州~関東までほぼ同じ言葉を話していたということなんだろうか?

古田先生の研究によると、防人・東人の歌にはほとんどが、恋愛の歌しかないという。逆に、万葉集の愁眉をなす挽歌がない。これは異常なことだ。ここから類推するに、関東圏にはもう一つの王国・朝廷があったのではないかということだ。ゆえに、大和朝廷にとって都合の悪い部分はカットされ、あありさわりのない恋愛の歌なんかだけがピックアップされた。だが、実際にはこちらにも、『あるふみいわく』『古書にいわく』・・・とかあって、複数の先行する歌集が存在していたことが明らかになっている。東国は決して文化的に低くて、恋愛以外の和歌が詠まれていなかった・・・なんてことはないはずなのである。

この防人問題と関連して、大事なことがある。それは、その防人の歌も九州(筑紫)詠われたものであって、九州人(筑紫人)作ったものではないということ。防人の多くは関東から徴兵されて来ているという。では、九州人の兵隊は歌が読めなかったのか?

そんなことはないはずだ。ということは、ここでもやはり、九州人たちのものはカット・削除されたとしか考えられない。同様のことは瀬戸内海人にもいえる。瀬戸内出身の人の歌もほとんどないという。

 

 

 


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。