SSブログ

この国のかたち~紀元節 [歴史]

邪馬壹国の卑弥呼の時代を遡ること約150年ほど前だろうか?

同じ北九州・筑紫日向(チクシヒムカ)の宮殿で、密かに?大望を企ている兄弟たちがいた。長男の名前は五ヶ瀬命(ごかせのみこと)。末弟の名前は狭野命(サノノミコト)といった。おそらくは、王族の分家筋であったろう彼らは、将来に見切りをつけて新天地を求めようと画策していた。広島県安芸のタケリ宮~岡山県吉備の高島宮と移動していったらしい。おそらく親戚筋を頼っての居候生活であったろう。

この間、故郷を離れ10年以上も経過していた。だが、自身の所属する領内ということも戦闘はなく平和であった。いや、着実に軍団の増強をなしていったのかもしれない。彼らは、ついに意を決して敵国の地、銅鐸文化圏である近畿(大阪方面)への襲撃を開始した。

自慢の海軍を率いて、一気に大阪湾へつっこんでいく五ヶ瀬軍団。しかし、敵も強い。当時の大阪湾は深く今の大阪城のあたりまでいり込んでいた。日下の楯津の地で、軍団は一敗地にまみれる。たまらず、船団を率いて脱出する。しかし、湾の出口である今の南方(みなかた)辺りは、両岸が狭く左右から弓を射掛けられる。哀れ、軍団の長であった五ヶ瀬命は矢傷がもとで最期をとげる。リーダーを失った軍団は、悲しみに打ちひしがれたであろう。命が死んだあたりをそれに因んでか血沼の海と称する。

※解説 軍団が進入する際には、南方を通らず、密かに迂回していったん船を陸地に上げ、引きずって目的地付近までいった。だが、逃げる際には、その余裕がなく狭い海峡を通らざるを得ない。

さりとて、もはや引くべきも地もなく、軍団は紀伊半島を遠く迂回して南端の紀伊・熊野の地へ上陸する。長兄五ケ瀬を失い、次兄、三兄不在の軍団を率いたのは末弟の狭野命。敵(ナガスネヒコ)は手強しと見た軍団は、作戦を替え以後はゲリラ作戦に徹する。

内通者、協力者(カラスだったか?)を得た軍団は険しい熊野山中を越えて大和地方に迫る。やることといったら、和解の酒宴を開いては騙まし討ちの暗殺ざんまい。おいおい、ちょっと自慢できないよなぁ~。なお、勝利後の侵略軍の報復は苛烈を極めた。兄の仇とばかりに、かの地を殲滅したのであろう。弥生時代後半、大和地方からは、銅鐸の遺跡がいっさい出なくなった!つまり、旧政権の祭器であった銅鐸をすべて破壊したということであろう。

この大和平定の伝説のリーダー、狭野命、彼こそが後に神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)といわれる人物。彼が即位した日が旧暦の1月1日だったらしいですね。その後明治にちょっと改変して、2月11日が紀元節となったそうだ。

神武神話は決して物語ではない、真実の歴史・考古学がそれを証明している。


nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 1

コメント 2

たいちさん

建国記念の日ということで、私も少し検索していろいろ閲覧しました。少し興味が湧いてきましたね。「南方」という地名は、現在も残っていますね。
by たいちさん (2011-02-11 13:40) 

降龍十八掌

たいちさん、ありがとうございます。
南方は駅名にもなっていますし、有名な学者さんの苗字でもありますね。

このミナカタをナンポウと解釈したために、本居宣長などは滅茶苦茶な説をでっち上げてしまったんですね。(大阪の南に海があるはずない!)もっとも、江戸時代には時代とともに地形が変わるという知識がなかったですからしょうがない面もありますが。

なお土曜日には、メイショウジンム!も劇走しました。さすがJRAさんですね。(笑)
by 降龍十八掌 (2011-02-14 08:00) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。