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アルファベットの小文字はいつ頃できたのか? [歴史]

天皇賞の週に三笠宮が死ぬとは、相変わらずの演出だが、いったいどうつながるのか?昨年は愛子様のズバリ、「ラブ」リーデイだったが・・・。まあ、愛子様のほうも、とうとう問題となってきているようだが。まあ、単純に2枠(黒)を使うの。そういや最近、ずっと2枠がメイン・重賞で使われている。それと、天皇陛下の引退宣言後の初の天皇賞でもある点が注目。

ただ、今回のメンバーはかなり手薄となった。前哨戦も勝った春の天皇賞・菊花賞馬のキタサンブラック、同じく前哨戦を勝った昨年の有馬記念馬ゴールドアクターも不在。よって今回はどれも信頼性にとぼしい2流馬たちの争いとなりそう。

人気は牝馬のルージュバックか。2着3着が定番だったサトノの馬=馬主がセガサミー社長、がとうとう先週の菊花賞でGⅠしかもクラシックのタイトルを奪取(サトノダイヤモンド)。勢いにのるサトノ勢は今回も2頭出し。サトノノブレスとサトノククラウン。 ほかには3年前の皐月賞馬で今年の安田記念で復活したロゴタイプという老雄。まったく軸馬不在だ。

そんな中ちょっと、気になる馬名がアドマイヤデウス。デウスは「天主」とあるから、戦国時代のイエス(またはヤーウェ)呼び名。本来はラテン語で(男)神の意味だという。ゼウスともいうが、それだとギリシャ神話のゼウス(ローマ神話のジュピター)と紛らわしい。たぶん、デウスとゼウスが似た発音なのは偶然だとは思うが、 昨日ワウワウで「ジュピター」なる映画をやっていたのが気になる。また、たいちさんの記事では今週、惑星の切手が発売されたある。今回は第4段で、デザインは「木星」といっていいだろう。これは偶然なのか?

 ちなみにヤーウエもヘブライ語では「神(主)」の一般名詞で、ヤーウエの本名はわからない。たとえ知っていても「神の名を唱えてはならない」と戒律にあるもんね(笑)。世間では誤解があるが、ヤーウエもアラーも一般名詞で個人名(忌み名)ではないんだよね。古代オリエントでも、バール(主)という単語が使われたが、これがユダヤ教が指す「ヤーウエ(天地創造の神)」と指すのか、一般的な多神教のオリエントの神を指すかは言っている本人にしかわからない。だから、これがかなりが誤解を生むことになった。現代ではバールというとタロットカードに登場する悪魔みたいに思われている。

さて、神も今では一般名詞では小文字のgod,ヤーウエを指す場合は大文字の God。だが、もともとアルファベットは大文字しかなかったというから、いったい小文字ができたのはいつ頃なんでしょうね?

日本語のひらがなとカタカナも漢字の省略形だから小文字といってよい。偉大なる百済官僚の発明である。カタカナがなかったなら、競馬の枠順は作れない。 


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匈奴と委奴 [歴史]

古田武彦・古代史コレクション最新刊(?)「24 古代史をゆるがす」を県立図書館から借りて読んだ。残念ながら、偉大なる古田先生は昨年「崩御」された。

今回、秀逸だったのは巻末の張莉さんなる中国人の論文。「倭」に関するもの。「倭」の語源は蛇らしい。そこからまがった、柔らかいという意味となる。現在の発音は「ワ」だが、当時は「ヰ」だったようだ。記紀にも神様が朝になったら「小さな蛇」になっていたという逸話もあるから、大和朝廷以前には「蛇」をトーテムとする国があったのかもしれない。

漢字を使う場合は、単に発音だけでなく「イメージ」に合う漢字を使うのが中国流だという。たとえばコーラなんかは口楽とか書くし、ドラエモンのモンは「夢」とかく。

今回、鋭い指摘と思ったのは、委奴国(イド)とは匈奴に対する反対概念ではないかということ。中国への侵略で脅威となった匈奴に対して、倭の卑弥呼などは臣従の形をとった。先日、ビデオ「王昭君」見ていたら、確かに皇帝は匈奴に金印を与えていた。だから委奴国も金印をもらったのだろう。

卑弥呼の所在地が邪馬・壹(ヤマ・イ)国というのは、発音的にも委奴(ヰド)のヰに由来しているのかもしれない。ヤマは山・亀を意味するものだろう。


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浅はかな「東大のディープな日本史」 [歴史]

たまたま本屋で目にした「ディープな東大の日本史」。どうせろくなもんじゃねぇ~と思いつつも、一応、見たらやはりその通りだった。

「大和朝廷が百済を援助したのはなぜか?」という東大の入試問問題がサンプル。

いや、そもそも「倭国」って大和朝廷ですか?

百済・倭国連合軍は唐の電光石火の海戦によって、海の藻屑と消えたんですよ。倭国は滅んだにきまっているでしょうが。少なくとも、戦後は、太平洋戦争後の日本のようなGHQ傘下になったに違いない。百済の最後の王様である義慈王は唐へ連行されました。倭国王も同様の扱いを受けたはず。

そんなことは歴史書を見れば、ちゃんと書いてあります。そういった情報は、いっさい学生・生徒に教えずに、戦後、天智天皇が天下を取って、やがて平城京ができたという話。

そんなバカな!

敗戦国が、ちゃっかり唐の技術を伝授してもらい、長安に模した平城京を作ったという話でございます。

一方、百済はどうか?隋や唐に対抗して、アジアの覇者たらんとした強国は、完膚なきまでに滅ぼされて、後進国の新羅が統一いたします。これは、中国得意の「近攻遠親」策です。お互いの利害が一致するわけですから。

ならば、当時の文明の中心が半島に近い九州だったとしたら、日本列島における新羅的な立場が辺境の大和ではないでしすか。大宰府を中心とした倭国は最低2度にわたる唐軍(あるいは、唐の支配下の朝鮮軍閥勢力)に進駐を受けている。後に、「筑紫君」といわれる「旧倭国王」らしき人物も、唐の人質から解放されている。

一方、大和朝廷はどうだったかというと、敗戦の後に論功行賞と宴会をやっている。こんなバカな話があろうか?

どうみたって、大和側は唐に味方した新羅的な立場ではないか。

さて、くだんの「ディープな日本史」の著者さんは、大和朝廷は百済から先進文化を受容していたから、危険を承知で百済との同盟を順守したといっている。しかし、敗戦後、唐と密接な関係を結び、新羅とはあまり仲良くしていないわけだから、まるで理由になっていない。まして、国が滅ぼされのを覚悟で、百済を応援する理由には全くならないのは小学生でもわかる理屈だと思うのだが。

結局、東大や学会の大勢がこのような態度をとるのは、「日本には大和朝廷しかなかった。かなり早い段階で、大和朝廷が日本列島全土を統一した」という妄想を唯一のテーゼとしているからだろう。

だが、実際には、後世の奈良・平安時代ですら、東国をも完全には支配下には置いていなかったのは常識。


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大麻と古代神々 [歴史]

宝島社新書から出版。

大麻と古代日本の神々。著者、山口博。

おもしろそうな一冊です。ウソだらけの日本史に一石を投じるか?(私はまだ読んでいません)


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虚偽を通せば、国は亡びる [歴史]

古田先生の講演から(私なりに解釈)

祝詞には、6月の大祓いに安国が見える。(靖国と安国が語源か?)そこには、天つ罪、国つ罪があり、罪を具体的に明確している。今の靖国神社とそれを信奉する集団にはこの罪の意識がない。

しかし、戦争犯罪といっても、日本だけでなくアメリカも中国も朝鮮も犯しているはずである。お互いにすべての罪を明らかにして後世に残すべきであろう。だが、アメリカも中国は決してそれを語らないし、GHQは語らせなかった。日本書記も倭国の歴史は語らなかった。

自分の国の歴史の悪いことも相手国の悪いこともすべて明らかにするのが祝詞の精神である。

天 日本を滅ぼすべし 虚偽の歴史を公とし通すとき(古田先生の詩)


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日本「書」紀もなかった? [歴史]

古代日本史の定説・教科書的説明は、100年いやそれ以上の間、ほぼ変わっていない。小林惠子先生の著書のまえがきにあるように、それは「学問の成果・成長がなかった」ということに他ならないだろう。

水戸学とその流れを受けた東大派閥の弊害である。都合の悪いことは原文を誤字として改定する。読めない文字もヤマトタケルとか勝手に訓読する。それもできないときは、原文自体が創作だとする。つまり、最初から結論があり、とても学問とはいえない。

近代においては、流石に神武天皇の実在を信奉する学者がほぼいないが、それでも継体天皇以下連綿とつづく万世一系的歴史観は未だに確固とした定説となっているといってよいだろう。(※逆に、反体制派の学説のほうが、神武東征は事実だったと主張している)

いわゆる古事記・日本書紀のねつ造論も、実は、天皇制を批判したものでなく、逆に記紀を文字通り読めば大和朝廷一貫史観が破たんするので、これはおかしい!日本は古来から大和朝廷の国だ!という皇国史観を逆に強めるための論理なのだ。

ところで、ついさっき見つけたブログで、日本書紀についての記事を見つけた。たまたま倭国年号(いわゆる九州年号)を調べていてみつけたもの。1988年の中小路駿さんの論文。

それによると・・・

1 日本書紀は現存する写本がいくつかあり、すべて日本書紀とか日本書記とかいうふうにかれている。

2 その成立を記載した続日本紀には日本紀としかない。

となると、はたして日本書紀・日本紀・紀と呼ばれる三つがはたして同一なのかどうか疑問がわく。

余談だが、この問題を最初に指摘した本居宣長は、「日本は中国のように王朝・国号の交代はないから、なんでこの書物に日本という国号をなづけたか許せない!」・・・というバカなことをいっている。本当にアホですわ、この人。

ただ、この本居宣長の指摘の一部には関心する。それは日本紀でなくて、日本書とあるのは漢書とか宋書、隋書といった中国流の形式にならったのだという指摘。

※ちなみに、中国伝統の記載方法の〇〇書というのは紀伝体である。「紀」の部分は本紀や帝紀をさし、「伝」の部分は列伝をさす。だから日本書紀とは日本書という歴史書のなかの紀の部分(のみ写本にしたもの)という意味である。歴史書には本文のほかに列伝(いわゆる伝)や王の系図がつく。続日本紀によると紀伝体の部分が30巻で系図が1巻あるというが、系図の部分は残念ながら今は残っていないという。

次にこの論文の中で論者は、「日本紀」で意味は通じるのに、なぜに「日本記」なのか?と疑問を投げかけている(系図1巻の部分は残っていないので、実質的に今ある日本書記は日本紀と同意義であるのだから)。日本書記以降の正史は続日本紀・日本後紀・続日本後紀となっており、「書」の字はない。これは、中国(唐)の影響がなくなったせいだろうか?7世紀末~8世紀は唐が九州に進駐しており、戦後のGHQ支配下の日本に似ているからだ。日本書記成立当初は当然、中国(唐)側の作法に従って歴史書がつくられたはずだ。

1 中国の正史で〇〇書は単一王朝。〇〇史は複数・数代の王朝の範囲にわたるもの。

※ちなみに三国志の志は誌の略字で、この場合は同時に並立した王朝を扱っている。なお、呉書には紀の部分はなく列伝のみだそうだ。

2 〇〇書というものは、その前提に興亡する王朝の存在を示している。

※まともな人間なら、未来永劫つづく王朝なんてこの世に存在しないから、当然のことと思うだろう。だが本居宣長は違った。おそらく彼の頭では、宇宙人はいない!ってのと同じぐらい、日本は昔から万世一系と思い込んでいた。

しかしながら、この本居宣長の偏狭な学問態度は反面教師としての示唆に富んでいる。宣長的歴史観においては、古来、日本列島には王朝交代も王朝並立もなかった!・・・ということなのだ。 この態度は現在にも濃厚に受け継がれている。つまり、正史に書いてあること以外は全部、ウソ・偽書というキャンペーンをはるのだ。逆説の〇〇史なんて書いていい気になっている人もその系統である。もっとも、そういう態度をとらないと、この業界・学会では生きていけないのだ・・・。

結論(この論文の)

日本書紀には紀にあたる30巻の部分とほかに1巻の系図(失われた)があるのみで、列伝の部分はない。よって、倭国ではない、(とってかわった)新王朝である日本国の歴史書紀伝体の部分という理解でほぼ間違いないだろう。だから日本書・紀なのだ。

ただ、日本という国号は倭国の末期になって自ら改称したのかもしれない。日本は倭国から禅譲を受けたという建前であり、大和朝廷側が日本と名乗っていたわけではないようだ。今の日本国憲法が建前上は大日本帝国憲法の改憲であるというのに似ている。

そもそも、日本書紀自体が神武天皇は栄光の九州地方からやってきたと記載している。これは当時の文明の中心が九州であることを証明している。神武天皇は兄たちが戦死したので、その後を継いだ。ふつうに考えれば、神武一派は九州における王族の分流か豪族クラスだったと思える。自分たちは、九州の分派であると自慢しているわけであり、わざわざ自分たちの出自を卑下して書くわけはない。しかも、大和攻略にしても最初の攻撃は惨敗であり、神武の兄たちは悲壮な戦死。その後はゲリラ作戦と敵側の寝返りで、だまし討ちにしての勝利と書いてあるぐらいだ。バリバリの右翼の本居宣長は、それが気に入らなくて、だから日本書紀は百済官僚の作文だと批判した。現在の通説もだいたいそういうことになっている。結局、神武東征の部分が日本書記の序盤のハイライトであり、結果的に7世紀末~8世紀初めに大和朝廷が九州側をも併呑して関西以西を統一したことの正当性を主張する根拠になっている。書物全体を読めば、そういう構成だよね。だから神武の後の2代目以降(欠史八代)は以下省略!・・・となっていても何の差支えもない。たまたまその部分が散逸したのか、あえてカットしたのかは不明だが。

この論文でもう一つ面白いのは、日本書紀の成立年代について。

日本書記の扱う範囲は持統天皇の末まで。だから、日本書記が持統天皇が死んですぐに書かれ始めたのなら理解できるのだが、「続日本紀」においては元正天皇のとき(元正即位5年後の720年)とある。

しかし、実際には持統の後は、文武・元明と2代つづいている。どうしてそうなったのか?どうして持統時代の終焉が時代の節目になるのだろうか?そして、どうしてその後の正史には「書」がつかなくなったのか?

これも序盤のもう一つのハイライトと関連していると論者は指摘いる。それはアマテラスの天孫降臨だ。持統天皇は孫の文武天皇(15歳)に譲位した。まさにアマテラス神話の再現であまりに出来すぎのシナリオ!ドラマでいえばプロローグとエピローグが完全にだぶっている名作。しかも、この時期に大和朝廷の統一がほぼ完成したというタイミング。しかも歴史家はこの天皇に持統天皇という意味深な諡 (おくりな)を与えた。

伝統の倭国の王統を継続したという意味なのだろうか?

文武5年に初めて日本国は元号を制定して大宝元年とした。当然、唐国の許可があったということだ。元号の制定は天子のみが許される。

とにかく、この時代を区切りに、もはや並立する王朝は日本国内からなくなったし、日本は古来より万世一系という建前が確立した。よって、もはや王朝の交代や並立を前提とする〇〇書は日本から消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 


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田んぼがあるから武田? [歴史]

久しぶりに億ウソを見ました。

最近は地名・苗字研究が多いのですが、確かに言われてみれば多くの〇田地名や苗字(姓)が必ずしも田んぼと関係があるとは限らない。いや、むしろ稲作が伝わる前から地名はあったのだから、田んぼとは何の関係もないほうが多いのかもしれない。

実は田という漢字を辞書でみると、①水田のほかに②広く土地の称・・・という意味があるのだそうだ。なるほどぉ~。

全く知らなかったのですが、平安時代あたりに、日本の地名は二文字の好字であるべし・・・との律令ができたらしい。となると、ほとんどの〇田地名は、後代に造作された地名であるのではないかと思いますね。

日本書紀にも「皇軍がたけび声を上げたから猛田という」記事もあるから、当時から単なる地名という意味で田を使っていたようだ。

 

 

 


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1世紀の読み飛ばし? [歴史]

三島由紀夫は日本の近代史を1世紀の軽率な読み飛ばし・・・と評したようだが、実際には1世紀どころか15世紀くらいは読み飛ばしているような・・・。

まず、日本というが、その国名の由来すら不明。倭国とか倭人という表現はあったが、その対象は九州地方+朝鮮半島南部のみ。日本という呼称は、それこそ日本書紀が登場するまでなかったはずだ。よく新たな遺跡が登場するたび、新聞で大和朝廷の影響うんぬん・・・という記事がでるのだが、まったくの検討違いだろう。

そもそもが日本列島各地に別々の文明・国家があったはずだ。およそヤマトタケルとは読めない碑文を強引に読み替えたり、邪馬壱国をヤマトと強弁する。そういった妖怪もどきの連中がいまだに跋扈しているこの国は、まさに縄文時代だ。

万葉集や古事記は封殺された密書であった。日本書紀は倭国を滅ぼした唐への配慮から完全に、倭国の歴史を換骨奪胎している。アメリカGHQに占領され、民主主義にひた走った戦後と同じ状態だからわかりやすい。新羅は唐を巧みに利用して漁夫の利を得た。一方、倭国も百済とともに滅んだから、新国家日本は新羅と同様に唐のおかげで成立した国家である。よって、唐の認めた天皇だけが即位できたであろう。

だが、ほろんだ倭国や百済の官僚は新国家日本に多数いたであろう。明治政府に幕臣や賊軍の家臣が大勢いたのと同じ状況だ。結果、日本書紀は日本の歴史というより、朝鮮本国でも散逸しみられない百済の歴史がほとんどだし、古事記なんかは完全に新羅の歴史が反映されている。

しかし、ことはそう単純ではない。8世紀9世紀になっても、政治情勢は複雑で女性天皇が多発した。ということは、とても公にできない権力闘争がつづいたということだろう。日本軍は東北地方だけでなく、本当の中国大陸東北部にまで出兵していたようだ。おそらく、平城京から平安京へという強引な遷都には複雑な裏事情があったはずだ。遷都というのは国家が交代するというのと同義である。

日本史の最後の謎。それは8世紀9世紀ともいえる。平家とか源氏とかがいったいどういう集団だったのか?その辺の謎がおもしろそうだ。

 


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住吉神社とは何か [歴史]

日本人には蒙古斑がある。遺伝子的にも朝鮮や中国よりも蒙古や中央アジアに近いことは近年の研究ではっきりしている。だから、モンゴル人の横綱いても外人扱いすることはない。日本原人なんて存在しないわけで、古代日本列島は要するに大陸からの移民の坩堝(るつぼ)であったわけなのだから。

さて、モンゴル、蒙古(モウコ)、靺鞨(マッカツ)、勿吉(モッキツ)は実は全て同じ語源だった。

韓ドラでもよく聞くマルガルとは靺鞨のことだが、このように〔t〕音は〔r〕音に転化する。結局、モンゴル、マルガル、モウコは同じなのだ。さらに、なまれば靺鞨も勿吉も同じということらしい。韓国の韓も漢と同じ〔ハン〕である。

2000年ほど前のモンゴル、靺鞨の語源の発音はムークイ、ムーキー(向)だったと思われる。神奈川小田急線沿いに住んでいた私は、けっこう不思議な地名に馴染みがある。向ヶ丘遊園、百合ヶ丘。向こうの丘なんて全国どこにでもあるし、百合ヶ丘でユリなんて見たことない。なんでこんな地名なのか?

さて、住吉神社の住という漢字も実は、スム・スミだけでなく、モチという読みもあるそうな。勿吉(もっきつ)を住吉(もっきつ)と漢字を変換すれば、別に『住むに良い』などというコジツケの地名由来にはならないはずだ。住吉神社は謡の高砂で聞くように大阪あたりが有名だが、東京の府中(東京競馬場がある)にも住吉町と日吉町がある。先ほど出した向ヶ丘遊園も実は府中市の南にある。

神奈川在住のおり、住吉神社や日枝神社はよく見たが、八幡神社はどこにもなかった。せいぜい鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮ぐらいで、街中にはぜんぜんなかったですね。生徒たちに聞いても、八幡様なんて知らなかったですね。私は全国どこにでも八幡様の神社があると思っていました。

問題の住吉神社は調べてみると、祭られているのは底筒男、中筒男、表筒男命ということで、なんのことかさっぱりわかりませんね。日枝神社もその由来文書をみると不詳、不詳、不詳のオンパレードです。実は関東地方の神社はほとんどが縁起不詳なんだそうです。これは歴史的に征服民族に抹殺させられたからでしょう。住吉神社のツツオとは新羅の伝説の始祖・南解次次雄ジジオ=ツツオというのがおそらく正体でしょう。それなら納得がいきます。ツツオは初代・パク・ヒョッコセの息子(長男)でニ聖と呼ばれているそうです。当時の新羅はチャミョンゴで有名な楽浪とも戦をした時代だったそうです。


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神社は誰にお参りするのか? [歴史]

全国に神社は多いが、いったい各神社は誰を祭っているのか?誰とも知らずにお参りしているのだから不思議。祭神が明らかなのは、靖国神社(神様がいない)ぐらいだろう・・・と思うから笑ってしまう。

一番有名なのは八幡神社(はちまんさま)で、私の故郷の小さな町(新潟県ンG市)も年2回、お祭りがあって学校が半休になったから有難い。一般的に八幡様は応神天皇ということになっているが、これも奈良時代になってからのもので、それ以前の発祥・いわれは古事記・日本書紀にもないそうです。

場所は九州の八幡(やはた)で、(八幡製鉄所で有名な北九州のヤハタ)、名前もヤハタが正しいようで、後に音読みしてハチマンと呼ぶようになったらしいですね。とくに宇佐八幡というように、宇佐郡が本拠地らしい。オオクニヌシの助けたウサギと関係あるのかも?

日本の地名は漢字の意味で考えるととんでもない勘違いとなる。特に弥生以前に遡る古くからの地名はそうだ。だいたい、時代とともに漢字も変わるので、地名の由来や意味を知るのはとても難しい。

さて、応神天皇とその母・神功皇后は4世紀の人物と考えられる。神功皇后の記事(日本書紀)には百済の記述が多数あるので、干支2つ分=120年ピッタリずれていることは既に証明されている。最近やったドラマ・近肖古王(クンチョゴワン)の時代ですわ。王は日本に有名な七支刀を下賜している。だから、日本に漢字や仏教がなかったなんてのはオオウソですね。

そして、現在は広開土大王(カンゲドワン)をやっている。ヨグ(近肖古王)の時代は高句驪を圧倒した百済であったが、この時代には東洋のアレクサンダー・タムドク王子(好太王、広開土王)の登場で百済は圧倒的な敗北をする。タムドクは実は、後燕の王子・慕容佐(ボヨウ・サ)であったと小林惠子先生はいっている。ドラマでも、現在、タムドクは妹を嫁がせて友好関係を築こうとしていますね。この慕容佐=広開土王(タムドク)は、アレクサンダー大王を同じく40歳ぐらいで若死にしている。しかし、本当は日本に渡って応神天皇になったという驚きの説を小林先生は唱えている。

広開土王=応神天皇=慕容佐

一見、無謀な説に見えるのだが、記紀には驚くべき記述があるのだ。神功皇后(応神天皇が子供のとき)のとき、敦賀にきてその地の神様と名前を交換したとあるのがそれ。名前の交換?いったい、どういうことなんだろうか?この辺が記紀の常套手段で、はっきりと明記されていないのだが、結局、政権がひっくり返ったということを暗示しているのだろう。記紀の基本的性格として、①外国人の倭王を認めない②易姓革命を認めない・・・というのがあるからだ。しかし、歴史家の良心というのだろうか、執筆した歴史家たちはいろんな暗示を残しているようだ。

名前の交換が本当ならば、その地の神様がホムタワケ(誉田別)で、応神天皇の本当の名前はイザサワケ(五十狭々、伊奢沙和気、去来紗別)となる。

特に古事記では、そのときにイルカ(入鹿魚)が打ち上げられて、これを神からのごちそうだと喜んで、ミケツ(御食)大神と名づけ、これが現在の気比(ケヒ)神社だという。一方、日本書紀はこの伝説を『だけど、こういった記録はない。本当だろうか?』ととぼけているのだ。

それにしても、蘇我入鹿のイルカってイルカ・クジラのことだったのね。目から鱗。

イササワケのイサ=佐(人偏+左)は慕容佐のことなのかもなぁ~。

 


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