『景初三年』もなかった! [歴史]
原文の『景初二年』がなぜ『景初三年』に改定(捏造)されたのか?
年号の一年ぐらい・・・どうでもいいような気がするが、なぜこの問題が大きいかというと、日本国内で発見された銅鏡(教科書に載っているアレ・・・です)に刻まれている年号が景初三年だから・・・ですね。
(原文)景初二年六月、倭の女王、太夫・難升米等と遣わし、(帯方)郡に詣り、(魏の)天子に詣りて朝献せんことを求む。
江戸時代の碩学、新井白石も『遼東の公孫淵が滅んだのは景初二年八月だから、まだ(倭から中国へのルートがなかった)この時期に使者が行ったというのは納得行かないんだよねぇ~』と書いている。つまり、魏と公孫氏側で戦闘状態にあったから、不審だというわけです。いや、ありえない!・・・と言い切っているわけです。その程度の根拠で、歴史書にケチをつけるとは学者の態度だと思わないが、この伝統は今も日本の右翼学者たちに受け継がれているようだ。
これにより、後世の学者たちは二年でなくて三年の間違い(ミスプリント)だろう?・・・と確定させてしまったのが実情です。
だが、最近まで『常識』とされたミスプリ説だが、根拠に乏しい。だってそうだろう?別に戦乱中だからといって使節が行き来できないとは限りませんからね。まして、公孫氏側が負けたのが8月だから、6月といえば、大東亜戦争でいえば、東京まで空襲された時期(笑)ですから、日本、いや公孫氏側の敗勢は火を見るより明らかだったかもしれない。だとすれば、外交上、いち早く朝貢を願い出るのは小国のとるべき常套手段だからね。
しかも、三国志の記述を見ると、この倭(邪馬壹國)側の使者を、帯方郡の太守は、魏の都まで送り届けてくれた。・・・とある。つまり官吏と護衛部隊をつけて送ってくれたと特筆されているのだ。このての護衛記事はその後、一切ないから、ますます、これは戦乱中のことだと思われるんだよねぇ~。
実は倭からの献上品は、男奴隷4人、女6人、布二匹・二丈という粗末なものだった。ところが、これに対して魏の明帝は大いに喜んで、けたはずれの下賜品を与えた。また卑弥呼個人に対しても、錦、白絹、金、刀、銅鏡100枚、真珠、鉛丹とこれまた豪華なお土産を与えている。北朝鮮の将軍さまがもらったマツタケどろこの騒ぎではないのだ。
およそ、中国4000年の歴史において、これほどの豪華商品をもらった國はないであろう。
きっと、戦略的に有効だったという以上に、何か特別な理由があるのではないだろうか?やはり、倭国がもたらした東南界の情報が有益だったのだろうか?
さらに、このときの恩賞だが、与えるという記事は12月項にあるが、実際に品物が送られたのは2年後の正始元年であったと記載されている。つまり、やはり、このときは戦乱の影響で、一時保管されており、戦乱終了後、改めて送り届けられた・・・と考えれば辻褄が合うのだ。
このとき、帯方郡の新太守は、部下を遣わして、詔書・印綬を報じ、倭国に詣り、倭王に拝仮し、報償品を賜う・・・と記載されている。実際に、倭国(邪馬壹國)に来ているわけだから、位置が不明なわけはない!!
実際、景初2年12月に魏の明帝は病の床に就き急死する。そして1年間の喪に服したので行政は一旦停止している。ゆえに倭国への下賜品が一時、封緘されていたと考えるのが常識であろう。
まったく、中国の歴史家もいいかげんなもので、後世の『梁書』において、早くも『景初三年』という改定が行われている。つまり、戦乱中だから二年は無理だろう・・・という安易な改定である。
分かり易い解説ですね。
by たいちさん (2010-10-17 00:27)
わたしも、ここまではちゃんと読んでいませんでした。
今の教科書をなんとかしないいけません。
by 降龍十八掌 (2010-10-17 08:53)
我喜欢日本历史,请多多关照~
by 大善士 (2011-05-10 09:45)
大善士先生、謝謝来訪。
by 降龍十八掌 (2011-05-11 10:06)