SSブログ

『会稽東冶(ヤ)』はなかった! [歴史]

司馬遷に勝るとも劣らない歴史家・陳寿。その名著『三国志』の真の価値を知るものは少ない。なんせ、本場中国人の学者ですら正確に読んでいないからだ。因みに、三国でなくて三国なのは、志=誌だからだそうだ。まあ、三国志のほうがロマンチックな表現ですけど・・・。陳寿がそういう意味をこめたかどうかは不明ですな。

陳寿はもとは滅ぼされた蜀の人だが、おそらく相当の才能があったのだろう、敵国・魏を受け継いだ晋の歴史官吏となったようだ。おそろしいほどの才能を周囲がほっておかなかったんでしょうなぁ~。因みに、晋の武帝(司馬炎)は蜀の諸葛亮孔明の大ファンだったそうだ。この当時から、孔明は伝説となっていたんでしょうなぁ~。

さて、会稽といえば、呉越同舟の越王・勾践(コウセン)の故事(会稽の恥)で有名だが、古くは伝説の夏王朝の中興の英主とされる(夏后)少康の息子が会稽王であったそうだ。夏はゴアウルド?[わーい(嬉しい顔)](ウ)が始祖である。

その夏后少康の子ども(名前は不明)が、地元の漁民(であろう)が蛟龍(みずち)の害に苦しめられているのをみて、断髪分身(短髪にして、刺青する)することを教化したという伝説があるのだ。いわゆるヤクザの身なりだが、これが今のヤクザ(=倭人の末裔)につながっているのかもしれない。3世紀の倭人もこの風習を受け継いで、海に潜っているので陳寿は、『ああ、きっと倭人は地理的にちょうど会稽の真東だし、会稽あたりの風習を受け継いでいるんだなぁ』と類推したのだ。これで、なぜ倭人伝の中に、夏后少康の話がでてきたのか理解できる。

よって、会稽東治は会稽王の治世のことを言っているのであって、(写本の)原文どおり東が正しいのだ。夏王朝の首都は洛陽のあたりだったので、会稽王の支配する領域は東にあたる。

たまたま、会稽郡の南方に東(トウヤ、さんずいでなくてにすい)という地名があったので、勘違いされたのである。ここでもまた後世の原文改定があったのだ!では、なぜ、天下の范曄(ハンヨウ、『後漢書』の著者)大先生がそんな過ちを犯したのだろうか?范曄(宋、398-445年)は重大な見落としをしたのだ。確かに、東冶(トウヤ)は漢代と宋代には会稽郡であった。しかしながら、260年(永安三年)に分郡があって会稽郡の南部は建安郡(呉志)になっていたのだった!よって会稽東冶(会稽郡東冶県の意味)という理屈はまったく通らないのだ!それを書くなら、建安東冶でなくてはならぬ。

もしも、東冶の東に倭国があったとしたら、そこは台湾もしくは、沖縄(琉球)である。

おそらく、蛟龍(みずち)というのはサメのことではなかったか?今でも、漁師は長い赤フンをはいて、万一の場合にはサメ(ふか)に食われないようにしているという。

時はくだり、伝説の夏王朝から殷を経て周王朝となる。周の太王に三人の息子があった。太伯、仲雍、季歴である。この末子の季歴が有名な後の周の文王。太公望の後ろでずっと待っていた人です。その季歴の息子が昌というのですが、祖父の太王はこの昌を気に入り、季歴・昌のラインに位を譲ろうとした。そこで、その意を汲んだ長男の太白は、自ら会稽(呉)の地へいき隠遁する。ここで彼は例の分身断髪して、世を捨てた意志をはっきり示したといいます。つまり、昔の夏后少康は自ら分身断髪はしなかったでしょうが、太白は王族でありながら分身断髪したんですね。つまり、千秋太后(チョンチュテフ)の慶州院君のようにはっきりと謀反の意志はないことを示したといわけ。

きっと、太白という王様(会稽王)は、地元(呉)の民衆から、慕われたでしょうなぁ~。

 


nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

海上保安庁は大丈夫か? [歴史]

尖閣諸島を巡って、右翼かぶれの政治家がさかんに地上派・BSに汚い顔を登場させている。

そういう御仁は、北方領土にいって、ロシアに軍艦に体当たりするぐらいのことをしてから、いっぱしの口をきくべきだと思うがいかかだろうか・・・?また、自衛隊を駐屯させろ!なんていっているバカがいたけど、その前に、自分で暮らしたみらどうだ?

ほとんど岩としかいえないような小島をめぐっての問題。領土?というのもおこがましいような島?だが、歴史的には、日本の領土でなくて琉球王国の領土のようだ。敗戦により、アメリカ領土となったが、アメリカはまさかこんな岩が領土だと思ってなかったらしく、実際にはその後、台湾の領土になっていたらしい。

まあ、要するに、中国・朝鮮・韓国がとにかく嫌い!という感情的なものと、その手の勢力から突き上げをくらって発言せざるをえないせこい連中なんだろうな。

中国側の船がジグザグ運転をしてぶつかってきたというが、実際には自動操舵だったと聞いた。自動操舵にジグザグコースなんてのがあるのかどうかは知らないが、くだんの船長は中国じゃヒーロー気取りのようだ。安倍晋三とか小池百合子もボートに乗って、ロシア巡視船につっこんでいく勇気はないのかねぇ~。首相候補になるのはそれからだろう?もっとも、軍艦を改造した?35ノットモもだせる、日本の巡視船がぶつけられること自体、問題なんじゃない?もしかして、わざとぶつけたのかも?・・・という疑惑まで浮上するよな。

パックインジャーナルできいた話だが、日本の海上保安庁も中国側の漁船に体当たりした前科があるんだってね。(笑)検察捏造事件と同じで、保安庁はごまかそうとしたけど、あちらさんの船の客がビデオにとっていて、ぶつけたのが日本側だと判明して、大事件になったそうだ。ところが、この手の話は日本のマスコミでは全く報道されなかった。その後、賠償金を払ったらしいけど、保安庁側の責任者(船長)が結局、出世のためにウソの報告を上げ、さらには組織防衛に走ったわけだから、今回の検察事件と同じ事件といえる。こんな連中に、領土保全をまかしていること自体が国益の損失だと思うよなぁ~。とにかく、失態を演じると、とにかくウソで自己保身をはかる非国民職員(隊員)が増えているというから世も末だぜ。

日本をこんな三流国家にした自民党の腐った政治家が、でかい口をきける立場じゃねえよなぁ~。まあ、自民党はアメリカの工作でつくられた政党だから、中国工作船といい勝負か?

尖閣諸島、地図で見るとほとんどこれは台湾だろう!ってふうにしか見えないけど、いつのまにか中国領になっているですなぁ~。(中国はそう主張している)

結局、領土争いなんてやめて、漁業交渉して仲良くやればいいのになぁ~と思うんだけど、やはり利益がでかくて譲れないんでしょうなぁ~。漁民は生活がかかっているからなあ。

 


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:ニュース

命がけの遣唐使時代? [歴史]

一連のGⅠシリーズも終了、全米オープンは来週、サッカーWCはもはや誰も日本チームが1勝をあげることを期待する人もいなくて話題にもならない。こんな時は、歴史のお勉強を・・・。

小・中学校で習ったころは、遣唐使というとかなり小型の船の絵を見せられて・・・、だから台風ですぐに沈没してしまい命がけだった・・・という風に洗脳教育されました。最近、テレビなどでも盛んにそんな番組(空海特集など)が放映されていますが、本当にそうだったんでしょうか?疑問がわいてきました。

小林先生の新刊『桓武天皇の謎』を読み返してみると、確かに歴史書(日本後記など)には大風で出向を取りやめたとかいう記述があるのですが、実はこれは『新羅軍が日本の船を攻撃するという情報が入った』から出向を取りやめたんですね。なぜかというと、本当の理由を書いたら沽券にかかわるので大風(台風)のせいにした。・・・と考えたほうが、はるかに説得力があると思います。現実に、遣唐使船の沈没率が丁半博打なみだったことを考えると、そう考えたほうが妥当のような。

確かに、そんなに簡単に船が沈没するなら、猟師なんてやってられませんし、海戦だってやってらませんね。(隋・唐対高句麗は何度も戦っているし、昔の倭国も百済まで海軍を派遣している。)だいたい、船旅自体が丁半博打のごとく危険なものなら、誰もそんなもんに乗らないと思いますね。それでも、もし行くとしたらよほどの使命感を持っていたか、切迫した理由があるということになりますが、当時の日本政府(大和朝廷)にそんな理由があったとも思えません。

だいたい、唐や新羅からも通商の船は往来しているでしょうから、商人の船に乗せてもらえばいいじゃないですかねぇ~?(まさに大船にのった気分で安心!でしょう)

平城京は奈良県にあるので、初期の遣唐使船は大阪湾から直接、出航していたそうです。渤海や新羅とも最初は仲がよかったのですが、日本国内の政権争いで渤海や新羅と敵対するようになったようです(だから、奈良時代には政変・事変が多い)。それで、遣唐使も朝鮮半島・渤海経由で行けなくなり、九州から直接、中国大陸へ渡航するようになった。

そもそも台風が近づいたら、出航を見合わせればいいわけで、天皇からの拝命(剣をもらう)を返す理由にはなりませんわなぁ~。だいたい、台風の時期に船を出すバカがいるか?船がそんなに危険なら佐渡に行くのさえ命がけだったということになりますからね。

鑑真の渡航失敗も伝説となっていますが、仮にそんなことが本当にあったとしたら、それは反対する勢力の妨害工作だったと考えるべきでしょうね。日本側にも唐側にも反対勢力があったでしょうから。当時のお坊様は、単なる宗教家ではなく、政府の外交官としての役目が主体であったからです。

この時代は吐蕃(トバン)勢力が力を持ち、唐が弱体化しつつあった。やがて、世界帝国としての唐が衰退すると、諸外国への政治介入がなくなり、朝鮮も日本も鎖国的状態がすすみ内向きの国家となっていった。後代、菅原道真公が遣唐使廃止をしたのもそんな背景があったからだ。


nice!(2)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

奈良時代一周とはいうけれど・・・大唐帝国興亡史 [歴史]

NHKBSでは、45日間奈良時代一周という15分間番組をやっています。平城京遷都1300年記念らしい。

だけど、奈良時代というのは非常に難しい時代です。そんなかんたんに一周できるはずないのですけどねぇ~。あんまりウソを広めないでほしいなぁ・・・。ちょっと心配になってしまいます。

学校の教科書では、大仏と遣唐使でさらっと流してしまいますが、本当は何も正確にわかっていない時代なんです。ナムアミダーバ。

このブログを読んでいただいている方は特区の唐に、ご存知でしょうが、日本の歴史は唐や高句麗・新羅の歴史と連動して見ないととんでもない方向にいってしまいます。皇室史観(水戸学)ではダメなわけです。逆説の日本史(某、右翼系歴史書)でなく、真説の日本史=アジア全体を広角レンズで覗いた歴史でないと。

高句麗東川王が神武天皇のモデル(神武東遷、いや、神武東川?)となって以来、日本書紀に書かれた天皇は大陸・朝鮮半島との 関連が深い。有名なヤマトタケルは慕容儁(ぼよう・しゅん)。だから白鳥(鷺?)になって帰っていった(笑)。日本書紀のかなりの部分が百済の歴史書のパクリ。いや、日本の高官・王族が百済人だったとしたら、自国の歴史なのかもしれないが・・・。

まず、奈良時代のちょっと前、唐の速戦即決の速攻作戦で、百済は滅亡します。倭国も存亡をかけた一大決戦に臨みますが、なんと全艦隊が全滅の憂き目に会います(白村江の戦い)。[もうやだ~(悲しい顔)]高宗の時代にはあの、大高句麗(ドラマ朱蒙、風の国)をも滅ぼし(ドラマ大祚栄)、新羅が三韓を統一します(ドラマ善徳女王)。しかし、その後、悪妻?の則天武后は対外的には弱腰政策(懐柔策)をとり、周辺部族を制御しきれなくなっていき東アジアは混乱の渦に巻き込まれていきました。

国内的には、はじめ共闘していた天智(てんじ)と天武が袂を分かち、さながら源平のごとく親族同士が複雑に対立し、表向きには天武系が勝利したことになっています。しかし、天武の子といわれる高市王子は実際には天智の子?であり、天武とは杯を交わして親子関係になったといわれます。その後も複雑な権力闘争が繰り広げられ、落ち着くのははるか後の平安時代中期くらいのようです。

国内が混乱した様子は、大化の改新前後から奈良時代にかけて、やたらに女性天皇が出現していることから分かります。善徳女王でも見られるように、オナゴの王が立つなんてのは尋常な事態ではありません。東アジア全体をにらむ大唐帝国は、周辺国家に深くかかわっていましたから、実際には九州に進駐軍も来ましたし、天皇継承問題にも細かく注文をつけたようです。ただ、理由はよく分かりませんが、とにかく唐は一貫して天皇(日本国王)には天智系の血統以外認めない態度をとりました。

これは盲点ですが、朝鮮各国と違って

本は正式には中国から冊封されていません。その点では匈奴や突厥などの遊牧民国家と同じ蛮族扱い?唐の皇室は遊牧民国家の可汗(カハン)や日本の天皇を承認するのであって冊封形式をとったことはない!やはり、日本は騎馬民族国家だったのか?![わーい(嬉しい顔)](笑)まあ、騎馬民族国家といっても、実際に馬に乗っているわけではないから、あくまで、聖徳太子=タルドウ可汗(百済法王)の後裔の国家というぐらいの認識だったのかも。因みに天武・聖武・桓武など武がつくのは聖徳太子の子孫らしい。

学校ではやたら遣唐使を送ったことを自慢げに教えますが、これってはっきり言ってモグリの渡航(=密航)じゃん。唐の歴史書では、日本人は態度がでかくて嘘つきばかりだったと書かれています。しかも、唐の科挙に受かって正式に官吏になったのは一人くらいしかいない(阿倍仲麻呂)。しかも、いなかっぱ丸出しで唐の書物をあさって持ち帰ったという。でも、これっておかしくない?

かつては、邪馬壱国(やまいこく)の女王卑弥呼壱與(いよ)が魏・晋朝へ、j時代が下って倭の五王たちは南朝各国へ朝貢して六国諸軍事・安東大将軍・倭国王などの称号金印など争ってもらっていた。なのに、8世紀の奈良朝廷がなぜ、唐へ正式な朝貢を行わないんだろう?数世紀にわたって中国とは直接国交もあったのに、官吏に合格もできないほど文化レベルに差があるのも不思議。また書物も改めて持ち帰る必要があったというのは不可解だ。いったい、日本はかつての倭国ではなかったのだろうか?

騒乱と謀略の平城京

奈良に平城京ができた後も、聖武・孝謙=称徳皇はあちこちの宮を転々とした。これって、つまり、平城京には住めなかった!ってことだよね。遷都を重ねる必要があるほど、政情不安定であった。いや、そもそも国王でなかったのかもしれない。

そして奈良時代には、やたらに〇〇の乱[むかっ(怒り)]が起きている(長屋王の変、藤原広嗣の乱、安積親王の怪死、橘奈良麻呂の変、藤原仲麻呂の乱、道鏡事件などなど)。つまり、このように謀反・クーデター事件があいついだ奈良時代を解明しないかぎり、平安京がなぜ京都に作られたのか?・・・すら分からないわけですね。まさに、倭~三韓の歴史を知らないかぎり、

倭韓無い!・・・というわけですな。

教科書では、りっぱな天皇さまが大仏さまを作って国の平和を願ったとか、奥さんの光明子が深く仏教に帰依をして善行を施したとか、遣唐使を送って文化が花開いたとかさかんに喧伝しているけど、実際には、おそろしく政情不安定なチェチェンやイラク、アフガニスタンのような状態だったのかもしれませんなあ~。

東北?の蝦夷との戦い

このあたりも具体的には、何も習わない所なんですけど・・・。(笑)一般的には、坂上のオジャル丸・・・じゃなかった田村麻呂なんて大将軍が、征夷大将軍となって東北を征伐したなんて話だけでごまかされていますけど。

まあ、田村麻呂は平安時代の人らしけど、実はこれに先立つ、東北蝦夷との確執はこれまた奈良時代に中国大陸で起きたの安禄山の乱と一体の動乱であったと考えなくてはいけないのだ!東北は東北でもズーズー弁の東北ではなくて、中国の東北地方(満州方面)平定だったあ~!???(驚愕!!)[がく~(落胆した顔)]

もちろん、靺鞨(まっかつ)勢力が海を渡って日本の東北へ侵入したということもあったのだろうけど。それに土着の東北人が協力したかもしれない。因みに、ゲソムンの弟分のセンヘは靺鞨人でしたね。(この辺の詳細は、後日・・・新刊・『桓武天皇の謎』を読んでからだよぉ~ん。)

まさに古代の日本列島は、国際的な動乱に巻き込まれていたことを改めて認識いたしました。隋と匈奴の戦い、匈奴の分裂、タルドウ可汗(法王、聖徳太子)の来日、淵蓋蘇文(ヨンゲソムン、いりかすみ)の来日、新羅文武王の来日、ウイグル

一大帝国、唐とそれを取り巻く遊牧民国家、朝鮮半島諸国の動乱と倭国・日本は直結していた。やがて、唐が滅ぶと各国は鎖国状態となっていき、内政のみに従事するようになり、国風文化が成立していった。こうして、バベルの塔の神話のごとく日本語と朝鮮語は乖離していき、不幸な時代となっていった。ヨーロッパでローマ帝国が滅亡したときと同じ状況がアジアでもあったわけである。

一般的には、奈良時代初期に正史・日本書紀が作られたといいいます。正確には、いったいどの天皇が作ったのかまるでわかりませんが、漢文で書かれたこの歴史書が宗主国の唐を意識して編纂させらたことは間違いありません。ですから、唐のご機嫌をそこねるようなことは書かれていない。万葉集も似たようなもんで、行政単位であるをすべて教科書検定?してに変えている!また、編纂されるたびに手を加えたようなので、最終的にどの天皇にとって都合のように書かれているのかまうで分からない[ふらふら]

いづれにしろ、唐は天智系の血脈だけに天皇と認めたようなので、天武天皇の奥さんは持統天皇と諡 されたように、最終的に天智系の血脈で万世一系という建前になっている。(だから、天武=ゲソムンも天智と兄弟でないとまずい・・・?)

奈良時代については、続日本記(しょくにほんぎ)に書かれているらしいのですが、この本は事実の羅列だれだそうで、各事件の背景や論評は書かれていないので、本当の実態はまるでつかめない・・・のだそうです。闇に埋もれた本当の歴史が解明されるのは、いったい、いつの日であろうか?


nice!(3)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

コノハナノサクヤヒメ [歴史]

新番組の題名『咲くやこの花』

で思い出しましたが、神話のコノハナノサクヤヒメ(木の花の咲くや姫)。

なんともシャレタ名前ですが、もちろん本名ではないでしょう。この手の説明的名前は古事記などには多いです。その昔、伽耶から日本海側の敦賀地方に渡ってきた人物に、ツヌガアラシトという王子・武将がいます。これはなんのことはない、『角がある人』ってことなんです。これも記紀に多い別名!として『ウシキアリシチカンキ』といいうそうで、『牛の頭の木』=角ということを漢字解字的に説明しているのだそうです。韓国ドラマの高句麗の武将は、バイキングみたいな角の生えた兜をかぶっていますし、新羅の官職にも角の字がつくものがあります。因みに、このツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等だと意味不明!)は有名なアメノヒボコ(天日矛)と同一視されることもあります。

コノハナノサクヤヒメは、天孫ニニギのみことの奥さん、現地妻です。つまり、海彦・山彦のオモニ。最近の研究では、関東地方の山の神様だと聞いたことがあります。大陸からの渡来した支配者層と現地の宗教融和といった意味合いがあったそうです。本来は、関東地方の土着の神様だったらしいです。

 


日本人の20世紀(その2) [歴史]

司馬さんの記事によると、

日本の敗戦の一因として、第一次世界大戦に参加しなかったこと

をあげておられました。卓見です。日清・日露となんとかごまかした明治政府ですが、革命的に兵器が進歩し、総力戦となった世界大戦の経験がなかった。その結果、日本は太平洋戦でも日露戦争当時の軍備のままで参加していった。日本は特需による漁夫の利に浮かれているあいだに、世界の動きから取り残されてしまった。

一方、世界は石炭から石油の時代になっていた。戦艦も戦闘機も、輸送ジープも全部石油で動くわけですから、石油を確保できない日本は戦争できる国ではなかった

昨日のドラマでは、日清戦争に伊藤博文は反対だった。兵隊の出身だけあって、西洋の軍事力を正当に認識できるリアリズムがあった。だが、参謀本部はこざかしい連中が跋扈して戦争に突入していった。これも、正い歴史(倭国の百済援軍→全滅)を学んでいれば、いかに危険なことかわかったでしょうに。

私がいつもバカにしている右翼ですが、司馬さんの記事によると左翼が先にできたそうです。(へぇ~)右翼というのは左翼に対するアンチテーゼなのですね。確かに、マルクスが登場する以前は世界中どこの国も右翼=王国、帝国ですからね。(笑)高句麗も百済も新羅も、千秋太后の高麗もぜ~んぶ右翼だもんね。だから右翼という言葉自体がなかった。

この国には真実の歴史学問がない。一方、西洋にはギリシャ・ローマの時代から綿密な歴史学が存在した。この違いが、日本にリアリズムが根付かなかった要因でしょう。百済人官僚が作成した日本書紀、そしてそれをねじまげた水戸学。実は今の日本の歴史学は全部、この水戸学派が明治以降に始めたものなんだそうです。東大の最初の先生が、水戸学者!!だから、未だに聖徳太子が法隆寺を作っただのという馬鹿げた話が教科書にのっているんですね。歴史学会も大和朝廷以外は絶対に認めないわけです。

石坂浩二のおひげのない水戸黄門、続けて欲しかったですね。この前、NHKの番組で語っていましたが、チャンバラでない水戸黄門を石坂さんはやりたかったそうです。水戸学という化け物を退治しないかぎり、日本の未来を開くことはできないでしょう。

因みに、この大和朝廷言葉自体、天武天皇が天下を取った(クーデター)とき以来の言葉だそうで、その前(天智天皇まで)は大和朝廷ではなかったということなんですけどね。


nice!(2)  コメント(2)  トラックバック(1) 
共通テーマ:テレビ

百済と倭国 [歴史]

[わーい(嬉しい顔)]薯童謡(ソドンヨ)第一話では、いきなり百済聖王(ソンワン)が戦死するところから始まります。共闘していたはずの新羅・真興王(チヌンワン)の裏切りに憤っていました。

一方、善徳女王では新羅・真興王が山で百済のスパイに暗殺されかけるところから始まりました。この山(北漢山か?)は、今でいえばソウル市内ですから完全に百済領を侵食していたことがわかります。

なぜ裏切りなのかといえば、新羅真興王(在位540-576)即位当初は百済聖王(在位523-554)と和睦して高句麗に対抗していたのです。しかし、高句麗の跡目争の結果、やがて真興王は裏で高句麗と手を結ぶようになっていたのです。

薯童謡では、倭国という言葉も良く出てきます。倭というと最初は日本列島方面全体や住民を指す言葉で、国家としてのイメージはなかったのですが、中国でも5・6世紀くらいになると倭国という記述が定着し始めたようです。(そもそも倭国内にはたくさんの国があったので)

実は、日本書紀においてもこの頃の記述は百済の記述がとても多くなっているそうです。欽明天皇(539-571在位)の時代は、百済聖王が欽明の変わりに話しているありさまで、しかもわざとかうっかりかわかりませんが、欽明天皇は倭国の磯島(しきしま)に都を遷したと始まっています。おいおい、日本の天皇がなんで日本に都を遷したんだ?・・・まるで爆笑問題の太田のような発言ですね。[わーい(嬉しい顔)]この天皇、日本書紀において、唯一、嫡子と書かれているそうで、父である継体天皇と正室王妃の子供ということになっています。教科書でもやたらに重視される、仏教の伝来や、仏像・経典のプレゼントもこの天皇の時代のことです。これは、百済への倭国から援軍にたいする御礼の意味が強いようです。なるほど、そう聞くと納得ですね。

ということで、カンの良い方ならもうわかったかもしれませんが・・・

 

続きを読む


nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

金庾信大いに怒る! [歴史]

白村江(はくすきのえ、ハクソンコウ)の戦いというと、唐と新羅が連合して百済を滅ぼしたと思われているが、実際はそんな単純なものではない。

唐の遠交近攻策はもとより、ミエミエであるから、新羅としてもノラリクラリと国会答弁のように優柔不断であった。

唐将の蘇定方と660年7月10日に合流することを約していた新羅軍は、遅刻する。定方は怒って、新羅軍の責任者を切ろうとするが、金庾信(キム・ユシン)は鉞(エツ、まさかり)をもって仁王立ちし、さながらサラリーマン金太郎のごとく怒髪天を突く有様で、抗議したという。・・・だが、どうもこれは大芝居だったようだ。新羅軍は最初から、百済軍と戦う気持ちはなかったのだ。まさに漁夫の利。

新羅では後の661年6月に武烈王(金春秋)が死に、反唐国派の文武王が即位する。文武王はドラマのように、本当に庾信の妹ボヒと弟分のゲソムンの子供だったかもしれない。この頃から、一見、唐と連合しているように見える新羅も、裏では倭国のゲソムン(天武天皇)と共闘して唐に対抗しようとしていたのかもしれない。たとえ、血縁でなくとも、新羅の大黒柱の庾信としては唐のこれ以上の侵攻は我慢ならなかったろう。

さて、660年7月13日、百済義慈王は王城を脱出するも、18日捉えられる。長安へ連行され、まもなく死んだと記録されているので、おそらく自殺または毒殺ってところでしょう。

百済の遺臣、鬼室福信は9月5日に、倭国へ救援を求めた。倭国には、長年、人質として?滞在していた義慈王の息子、豊璋(扶余豊)がいた。豊璋を百済王として帰国させてくれと願い出たのだ。(なお、義慈王にはたくさんの息子がいました。)

12月には、救援の軍備を整えているから、あらかじめ準備していようだ。

翌、661年からは倭国・百済の命運をかけた総力戦が待ち受けていた。


nice!(2)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

東アジア連動体?(謎の8世紀) [歴史]

正史『続日本紀』は事実の羅列のみで、経緯と個人の思惑などが全く書いてないそうで、真実を追究する資料足り得ない。となると、ヒントは外国の資料しかなく、この8世紀もまた東アジア(東夷)全体のうねりのなかで解釈していくしかないようだ。

また、中国・朝鮮諸国・日本の歴史書において、しばしば使用される讖緯説(しんいせつ)的表現の解釈も重要であるようだ。例えば、鳥が巣を作った・・・などという場合は血筋の違う王家になったり、クーデターが起きたことを暗示しているというわけだ。正史であるから、時の権力者にとって都合の悪い部分は暗示にとどめるのは当然ですね。ただ、今でこそこれらの表現はまったく意味不明となっていますが、当時は貴族階級が読めば誰のことを言っているのかちゃんと分かったぐらいのレベルだそうです。

7世紀後半のおさらい

対唐国(タンナラ)戦において、天智・天武は共闘する。百済と倭国は一体であった。(為政者レベルでは、言葉も同じか方言程度しか違わなかった。)結局、唐に敗北するが、一応、和睦した?だが、その後、唐の皇帝が認める倭王は天智系のみであった。・・・理由は不明ですが、小林先生は『天武天皇=高句麗の淵蓋蘇文と考えているので、唐としては宿敵のゲソムンを絶対に認めたくなかった』と考えています。

668年 天智、大津京(近江だから、奈良ではない)で即位

同年、高句麗が滅亡しているので、天智は高句麗系の後押しが無くなった天武を出し抜くことができた?しかし、不思議なことに

671年 天智死亡、子供の大友皇子即位

超ラッキー?というべきか暗殺成功だったのか分からないが、立場は逆転!吉野に隠遁していたとう天武軍は破竹の快進撃?というより、敵が自ら投降してきたというくらいの戦いだったと記載されているから不思議。これが有名な壬申の乱(672年)。天皇の軍隊が勝ったのに乱というのは不可思議だけど・・・。(だって、記紀は天武天皇の命令で書かれたというが通説ですからね)

小林先生の大胆な説では、当時の新羅の王様・文武王は天武=ゲソムンが新羅の名将・金庾信の妹ボヒ(宝姫?)に産ませた子供であった。(これは、韓国ドラマ・淵蓋蘇文でもそうですね。)よって新羅軍の応援もあったと考えると、確かに日本の出来事もツジツマは合う。

一方、唐はこれに対して黙っていられない。ドラマ大祚栄で、則天武后にドクを盛られつづけたあの頼りない皇帝=高宗の時代だが、朝鮮半島在住の武将(劉仁軌かな?)に命じて新羅を攻撃させた。

因みに、ドラマ大祚栄では、もっぱら薛仁貴(せつじんき、ソリンギ、イ・ドクファ飾)とイムン(李炆)しか出ていませんでしたが、ソリンギはベトナムからチベット方面まで戦争に従事しており、ずっと安東都護府にいたわけではありません。それと、イムンについては調べてもまったく出てこないので、ドラマだけのオリジナルかもしれません。実際には、劉仁軌や朝鮮半島土着の劉仁願という人たちが活躍したようです。彼らも日本の歴史に相当関連したはずです。

その後、673年に金庾信もなくなり(80歳近くまで生きたのですね)、新羅朝廷内部も親唐派と強硬派の分裂もあり、新羅文武王は681年に死亡したことになっています。淵蓋蘇文は665年に死亡したことになっています。このゲソムンと子供?の文武王ともに天武天皇同様、生年が不詳であり、死んだ時の年齢もはっきりしていません。(金庾信はちゃんと生まれた年が書いてあります。)やはり、いわくつきの人物たちですね。

小林先生は、新羅文武王は日本へ亡命、ゲソムンは682年に日本海方面へ逃亡途中で殺されたと考えています。だけど、ゲソムンが682年まで生きたとするといったい何歳?兄貴格の庾信が78歳くらいで死んでいるから、ちょっとそこまで生きるのはムリなんじゃないかなぁ?・・・と思います。確かに、風貌は天武=ゲソムンなのですが。

682年 天武死亡

683年 長男・大津皇子即位(母は天智の娘といわれる)・・・ゲソムンには朝鮮半島で男子がいたので?『日本書記』では三男とある。高市が天武の長男ということになっている。

 

686年(朱雀元年) 高市皇子(たけちのみこ)がクーデター。大津を謀反人として殺す。これが持統天皇(女帝、天武の妻)朝第一期の実態。

高市皇子(隠れ持統天皇)は唐と和睦。実は、高市皇子は天智の息子であった!

高市皇子は、かつて大友皇子との軋轢から、天武天皇と手を結んで義理の親子の杯を交わした。それで、軍権を持つ高市皇子の後ろ盾もあって天武が壬申の乱で勝利した。高市皇子は当然、天武の後は自分だと思っていたのだ。

いわゆる持統朝では、唐との良好な関係がつづいた。しかし、高宗を毒殺した?則天武后の時代になると、対外的に弱腰になったため(ドラマとは正反対!)、各地で大祚栄(テジョヨン)の渤海・突厥・契丹が反乱を起こした。このため、日本は唐との連絡経路である朝鮮半島経路を失ってしまった。

697年 高市皇子死亡 

698年 渤海建国

以前、新羅から亡命して雌伏していた文武王、天武の妻・鸕野皇女(うの)・藤原不比等らが反高市皇子勢力だった。

697年 新羅文武王は日本で文武天皇となった。天武(ゲソムン)の長男であったから資格はあった。天武の妻(義理の母)との共同統治、これが持統天皇朝(第二期)の実態である。

702年 遣唐使も送ることができて、則天武后の唐(周)と和睦できた。また、新羅の聖徳王は文武天皇(=文武王)の子供であったから良好な関係であった。

しかし、平和は続かなかった!

705年 則天武后が死に、中宗即位。文武天皇即位を許さずに圧力をかけてきた。

707年 元明天皇(女帝、天智の娘)と藤原不比等にまかせて、文武天皇は退位。大陸に渡って、突厥と共闘した。

712年 玄宗皇帝即位。唐はより対外強硬派となる。

715年 突厥は弱体化し、高文簡(実は文武王)も降伏。元明天皇(女帝)は娘、元正天皇に譲位。

こうして、ゲソムン王朝=天武王朝は終焉した。

 感想

やはり、日本史はアジア全体の動きの中で理解しないと無理なんですね。矛盾だらけの日本史の教科書・参考書ではまったく脈絡がないので覚えられないのは当然です。(といっても、私は高3で日本史とらなかったですけど・・・。高1,2と世界史だけでした。)

ただ、唐と戦った天智天皇が簡単に和睦できたというのは疑問です。これは小林先生が九州王朝説を取り入れずに、大和朝廷だけの視点で分析しているからでしょう。実際には九州大倭国の筑紫君・薩夜摩(サチヤマ)という倭王が唐本国に連行されて、後に帰国してますから。倭国と日本は分けて考えないと混乱します。

 


nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

謎の8世紀 [歴史]

文化の日に、称徳天皇(女)と道鏡の番組があったようですが、通常の歴史感覚だと710年に平城京が出来た後は大和朝廷が確立して、一応、日本国としての統一がとれてきたように思われているでしょう。私も、そう思い込んでいたのですが、それは誤りのようです。

奈良時代 和銅3年(710年)元明天皇、平城京遷都~延暦3年(784)桓武天皇、長岡京遷都 

確かにその後、いろいろと遷都したあげくに、平安京になってやっと落ち着いたのですから、奈良時代の歴史も一筋縄ではいかないようです。普通の人は、長岡京や藤原京なんて聞いたことないでしょうからね。実は、平城京自体も実際に機能したのはわずか初めと終わりの10年程度しかないそうです。私も含めて、平城京も平安京同様にしっかりとした都で安定していたと思っている人が多いと思いますが、実は奈良時代の天皇は、城外の粗末で小規模な居所を転転としていたに過ぎないとのことです。どうも、この辺から探っていく必要がありそうです。

奈良時代というと、天武天皇が天下を取って、安定した政権が樹立した・・・というのが一般的認識でしょうが、実はまだまだ政情不安定だったようです。日本書紀や古事記もこの時期に、天武天皇の息子が編纂したということになっていますが、私は疑問に思っています。

729年 有名な『長屋王』の変 740年 広嗣の乱 744年 安積親王の謎の死

757年 橘奈良麻呂の変 764年 藤原仲麻呂の乱 

そして有名な大事件 770年 称徳天皇の死と弓削道鏡の流罪

・・・と謀反・クーデターのオンパレード。もしかして、イラクより政情不安定だったのかと思ってしまいます。 

一般的に、道鏡というと女帝をたらしこんだ怪僧=男ミシル・・・ってイメージが定着していますが、まあ、これは後世の脚色でしょう。道鏡というのは、正体不明ですが当然のことながら皇位についても不思議の無い血筋であったことは確率が高いでしょう。

道鏡は 座ると膝が 三つでき  という川柳があるらしい。(逆説の日本史で読んだ)

 


nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。