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中大兄皇子の謎 [歴史]

中大兄皇子は3度も皇太子(東宮)に冊立されたという異様な経歴の持ち主である。

ということは、後に経歴を詐称・捏造したと考えるのが自然である。本当に舒明天皇の息子であり、皇極=斉明天皇の息子であるサラブレッド(聖骨)ならば、すんなり天皇になったはずである。しかも、大化の改新という一大事業をなした最大功労者なのに、それでも天皇になれないなんて不可思議すぎる。

舒明天皇が死んだときに弔辞を詠んだという16歳の開別皇子とははたして、誰なのか?歴史から抹消された人物か、あるいは捏造された架空の皇子なのか?通説は、当然、この開別王子が中大兄皇子だと言い張るのだが、それはムリだろう。なんで名前が3つも4つもあるのか?

まあ普通に考えれば、中大兄皇子は舒明天皇とも斉明天皇とも血縁関係がなかったということになる。

百濟義慈王の息子・翹岐は日本に天下りしてきており、当時は大使として旧敏達天皇宮に住んでいた。蘇我氏にも歓待されていた。

また皇極⇒孝徳⇒斉明と弟・孝徳天皇は姉・皇極(斉明)からもらった皇位を再び姉に返したということは、自分の息子(有馬皇子)を太子にしてはまずい事情があったからであると考えるのが自然。その結果、斉明は息子?中大兄皇子をようやく太子にすることができた。

中大兄皇子という名称は、皇極紀以前には登場しないし、中大兄皇子が出現してから、翹岐は出てこない。推理小説風にいえば、90%がた中大兄皇子=翹岐は同一人物ではないかと思われる。

また、よく言われることだが、皇極天皇=斉明天皇という通説も非常に不自然だ。本当は別人だったのではないか。斉明天皇は突如、狂ったように(対唐防衛戦争の防備のために)工事を始め、民衆は怨嗟の声を上げたという。これは九州倭国王の記事をパクッて記載したいというのが一番納得できる説だ。倭国と百濟は同盟国だったからだ。大和朝廷(日本)は倭国を裏切って唐・新羅と結託したのではないか?

 

 


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たいちさん

教科書にはない面白い話ですね。韓国ドラマではどう表現するでしょうね。
by たいちさん (2012-06-04 15:29) 

降龍十八掌

先日のクンチョゴワンみたいに、ヤマタイ国の王女が留学してくるなんてムチャクチャはやめてほしいですけどね。(笑)

by 降龍十八掌 (2012-06-04 17:46) 

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