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ちはやぶる② [歴史]

早稲田だか慶応の応援歌が『あらぶる』かなんかだったと思うが、そのせいか『ちはやぶる』もなんかあらぶる神様にかかる枕詞のように思えたりするが、それは勘違いだろうか?

まあ、当時は万葉仮名なので、知波夜夫流のような当て字だから、その意味・語源は分からない。当然、漢字の訓から意味を類推はできない。しかも何種類もの書き方がある(千羽八振など)ということは、完全にABCのように音を当てているだけという可能性が高い。もしも訓で考えると、最初のやつなんて、なんか夜に夫が波のように押し寄せてくる=まさしく、ちはやぶる!ってイメージのセクシーな当て字だ。

なお、万葉仮名を大和仮名という用語もちょっと語弊があって、本場中国でも外来語を漢字で音訳するので、別に日本人の発明とは言えない・・・。[ふらふら]

さて、万葉集には源・万葉集があったという可能性が高い。さらに、防人(さきもり)という言葉からもある推理が生まれる。古田先生によると・・・

防人というからには、本拠地の先(国境)にあるわけだが、なぜ、大和(奈良)朝廷の防人が九州・福岡にいるのか?大陸から軍勢がくるとしたら、越の国(福井あたり)とか、出雲、あるいは船で瀬戸内海を侵攻してくるだろう。事実、北朝鮮の難民も海流にのって島根あたりに来るんではないかな?北九州だけを防備して(安心して)いるなんて間抜けな軍隊がどこにいるんだろう?

ということで、やはり防人という存在からも、北九州には邪馬壹国以来の倭国の首都があったとい説が浮上せざるをえない。北九州の沿岸を守る防人がいるということは、本国はその付近の筑紫(チクシ・・・当時の発音)以外に考えられないからだ。苗字に山や川があるが、当然、山や川の先にあるのであって、奈良から1000キロ先離れたサキモリというのは考えづらい。それが常識というものだろう。後に、大和大王家が倭国朝廷を併合したので、文化的には後進国である日本が倭国の万葉集や古事記の記事をパクッたと考えるのが合理的な解釈だ。歴史的には同時代に、朝鮮半島でも後進国の新羅が百済・高句驪を併合した。謎の重要人物・柿本人麻呂なども本来は倭国側の人間であったと考えると、多くの謎が解けていく。

ところで、防人とういのは東国から徴兵された兵隊さんだということになっている。彼らが和歌を詠んだということは、もうその当時で九州~関東までほぼ同じ言葉を話していたということなんだろうか?

古田先生の研究によると、防人・東人の歌にはほとんどが、恋愛の歌しかないという。逆に、万葉集の愁眉をなす挽歌がない。これは異常なことだ。ここから類推するに、関東圏にはもう一つの王国・朝廷があったのではないかということだ。ゆえに、大和朝廷にとって都合の悪い部分はカットされ、あありさわりのない恋愛の歌なんかだけがピックアップされた。だが、実際にはこちらにも、『あるふみいわく』『古書にいわく』・・・とかあって、複数の先行する歌集が存在していたことが明らかになっている。東国は決して文化的に低くて、恋愛以外の和歌が詠まれていなかった・・・なんてことはないはずなのである。

この防人問題と関連して、大事なことがある。それは、その防人の歌も九州(筑紫)詠われたものであって、九州人(筑紫人)作ったものではないということ。防人の多くは関東から徴兵されて来ているという。では、九州人の兵隊は歌が読めなかったのか?

そんなことはないはずだ。ということは、ここでもやはり、九州人たちのものはカット・削除されたとしか考えられない。同様のことは瀬戸内海人にもいえる。瀬戸内出身の人の歌もほとんどないという。

 

 

 


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