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ケベクの時代~日本書紀 [歴史]

第23巻(舒明紀)末尾

(641年)10月、天皇が百濟宮に移られた。この月に崩御された。宮の北で殯(もがり)を行った。これを百濟の大殯(おおもがり)という。このとき16歳の東宮・開別皇子が誄(しのびこと)を述べられた。

第24巻皇極紀

舒明天皇が没して、東宮ではなく皇后が即位するという異常事態となった。これが皇極天皇である。

あくる年(642年)正月、即位。蘇我蝦夷を大臣としたことは従来どおりである。その息子の入鹿自ら国政を執り父より優れていた。ために、盗賊さえも道におちているものを拾わなかった。

これは、よほどの善政を敷いたということなんでしょうね。訳では、入鹿が父の蝦夷をしのぐほどの権勢であったと書かれていますが、それだと意味が通じませんね。だって二人は親子ですから対立してたわけではないでしょう。二人は表裏一体のわけですから。ここは、盗賊さえも恐れたと書かれているのですから、統治能力が父親以上に優れていた(原文は『威は父に勝る』)と訳すべきではないでしょうか?少なくとも、これが国語のテストならそう解釈しないとペケですわなぁ~。そうでないと前後のツジツマが合わない。つまり、総理大臣である父の代行として、自ら書類に目を通したり、現地視察をしてバリバリ実務をこなし、その威光は盗賊さえも恐れるほど父親以上だったということなんでしょう。だとしたら、大化の改新で暗殺されるようないわれはないですなぁ~。

問題はこの後。

1月29日に百濟からの使い(あるいは百濟に派遣された使い)が言うには、(彼は筑紫にいる弔使に先駆けて大和に来たの)

『百濟国は、先の天皇への弔使を遣わしました・・・。今、百濟は大変、混乱しています。』

これが日本の正史だろうか。記事は、百濟のことが中心となっているのだ。ただ、残念なことに、その内容が具体的に書かれていない。ソドンヨ=百濟武王が死んで、息子の義慈王がすんなり王位にはつけなかったということなのだろうか?ドラマのように義慈王は本当に新羅ソンファ姫の息子で百濟貴族たちが反発したのだろうか?

まあとにかく、その報告を受けて日本側は百濟の国情を調べるために、2月2日に使者を(筑紫へか?)派遣した。(相手の)百濟からの弔使からの返事には・・・

『百濟国主(国王より格下の表現か)が(天皇に)申し上げるには、塞上は常に悪さをする。天皇にお願いして帰国させるように申し上げてもお許しくださらないだろう。・・・といいました。』 

と、まるでわけの分からない意味不明の答弁なのだ。塞上が誰かは別として、まあ、今は日本にいるということですな。義慈王は本当はその男を側近として呼び戻したいと思っている・・・としか解釈しようがないのだが、そんな悪いやつをなぜ呼び戻したいのか意味不明。しかも、これは百濟の国情がどうなっているかの回答に全くなっていない!

さすがに正使サマは立場上、奥歯に物が挟まったような物言いしかできないのだが、彼の部下たちが言うには

『昨年の11月に大佐平の智積(ちしゃく)が死にました。また崑崙の使いを海に投げ捨てました。明けて、今年の正月に国主(=義慈王)の母上がなくなりました。また、弟王子児翹岐とその母娘女子4人、高名なもの40人あまりが島に放たれました。』

と、少し具体的な話になってくる。総理大臣と王の母が死んでいるのですから、これはかなり生臭い話です。ケベクでは、サテク王妃の父は大佐平の積徳(チャトク)といいますから、この死んだ智積(一字違い)がモデルなんでしょうか?しかも、義慈王の母は新羅ソンファ公主。ほんと、良く出来たドラマですね。当然、二人が偶然に自然死したということはないでしょうから、当然、この間の百濟大混乱という重大事件が裏にあったはずです。まあ、だから正史に記録されたのでしょうが・・・。

さらに日本側にとって重要なのは、後半部分。百濟から派遣あるいは左遷させららた翹岐という人物。日本書紀皇極紀では、この後この百濟王族・翹岐が中心に話が進んでいきます。

弟王子児の意味は?

この辺が全く判然としません。王弟ならば王の弟で、ケベクのキョギ王子(異母弟)みたいなもので話はスンナリいくのですが、弟王子って誰よ?!ってことなんですよね。しかも、どこで区切るのかわからんのです。①弟である王の子児、②弟である王子の児、③兄(=太子)の弟王子の児なのか?

①では子児=息子の意味だといいます。②③は王子=プリンスと一般的な解釈。ただ、いずれにしろ、弟って何?という疑問は残ります。一番納得できるのは、皇極天皇から見て弟である王あるいは王子という解釈ですが、それでも、じゃあなぜ百濟国主(=義慈王)は弟でないの?ということになります。

なお、後の高句驪から報告記事でも、この弟王子という単語がでてきます(弟王子が死んで、さらに高句驪王を大莫離支(テマクリジ)のヨン・ゲソムンが殺した)。ということは一般的な単語だったのか?あるいは皇極天皇は高句驪とも血縁関係があったのか?当時の半島・三韓(倭・日本を含む)の王族は中世ヨーロッパのように血縁関係が交錯していたと考えられている。

さらに、その翹岐の母妹女子4人も問題です。これも①母親+妹3人、②同母の妹4人、③同母の妹+妻(女)+子供たち、などといった解釈が可能です。一般的には②あたりで訳されるのが一番多いようですが、40名以上の一族郎党引き連れての出国ですから、母親がいたとも十分ありえます。また、後の記事で、翹岐の子ども+従者が死ぬというきな臭い記事もでてきます。このとき、翹岐と妻は葬式をしたが死んだ子どもの顔を見なかったという風習の違いも書かれているのです。(さらにいえば、書記はこのことを畜生に劣る非人道的行為だと非難しているのです。だが、これは朝鮮と日本の風習の違いですから、筋違いの非難だと思いますが・・・。高句驪・百濟・新羅でも親子・夫婦・兄弟は死体を見ないという風習である。)まあ、いずれにしろ、翹岐には妻とそれ以外の子供がいたとハッキリ書かれいます。だから、通常いわれるような政変による島流しという解釈もありえますが、宗主国百濟から倭国への派遣・天下り的な意味も色濃いと思いますね。当時は新羅との関係が悪化していますから、対新羅・唐との関係に対応するためには日本側を味方に引き込むことが重要だったはずです。

その後、翹岐は有力者である蘇我氏に歓迎されていきます。しかも、子どもが死んだのになぜか相撲見物させられたりするんですよね。喪中の人間にそんなことさせる大和朝廷の方こそ、非難すべきだと思いますがね。しかも、子どもと従者がほぼ同時に死んだというのは自然死ではない可能性が非常に高いでしょ。

結局、この母妹女子4人というのは、⑤母+妹+妻+4人の子供、あるいは⑥同母の妹+妻+4人の子供たちと考えるのが自然ではないでしょうか?妹とその娘たちというような考えはちとムリがあるように思います。女というのは天皇の記録なんかでも妻という意味でよく使用されます。現代のように女子という意味では使わないですね。ふつうは妻+子供の意味のはずです。

 


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