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親呉倭国という存在 [歴史]

古田先生の学説はますますご発展。昨年の講演から新たなテーマ。

消えた90国

魏史倭人伝がかかれる前、漢の時代には倭国は100ヶ国以上であった。だが、三国志中の魏史では30ヶ国となっている。一般的には、戦乱の過程で合併・併合・統合されていったのだろうと解釈されている。だが、実際、そんな証拠はどこにもない。これは、とんだ思い込みだったかもしれない。

古田先生はこの点に着目し、三国志を見直したという。三国は蜀・呉・魏の順で滅んだ。よって三国志も各国の滅亡まで書いている。呉が滅んだのは280年。編者の陳寿が死んだのもその後、297年というから、まさに三国滅亡の歴史を目の当たりにしている人だ。

親魏倭国として北朝に朝貢したのが30ヶ国。全部で約120ヶ国だったとして、残りの約90ヶ国はどうなったのか?

蜀は滅んでいるから、倭国諸国は、南朝に付くか魏(西晋)に付くかで迷ったはずだ。倭人伝にあるとおり、邪馬壹国とその同盟国30ヶ国は親魏を安全保障の方針としていた。対して、邪馬壹国連合に敵対する国々、例えば約20ヶ国ぐらいが親呉倭国だったと仮定すると、どっちつかずの国が70くらいあったのではないか?

265年に西晋が魏を継承する。この翌年266年に、邪馬壹(一)国の壹与(一与)がまさに、名前のとおり、二心ない忠誠を誓って朝貢したわけです。そして、それ以後、例の『絶つ』という状況=この後、中国側に倭国は登場しなくなる。

だが、三国志全体は終わっていません。280年に呉が滅亡する。このこともちゃんと書かれているわけです。陳寿は生きているわけですから。さて、呉が滅亡し、魏を承継した西晋の時代となった。邪馬壹国諸国(親魏倭国30ヶ国)勢は、がぜん力を増したでしょう。前任者の卑弥呼は魏に、後継者の壹与は西晋が成立したときから朝貢しているわけですから。一方、旧親呉勢側やどっちつかずのコウモリ諸国はそれなりの対応に迫られたはず。こうして、倭国諸国は再び大乱の時期を迎えたのではないか?

ただ、その後の歴史で邪馬壹国は、二度と登場しない。なぜ、朝貢してこなくなったのか?日本列島内で起きた新たな大乱の結果、邪馬壹国は滅んでしまったのか・・・?

その後、倭人が歴史に登場するのは、はるかに時代の下った5世紀にの五王、7世紀の隋書に登場する俀国(タイコク)が登場することになる。ヤマ・・・と名の付く国は登場しない。


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たいちさん

古代の日本について、関心がありますが、己の勉強不足を痛感しますね。
by たいちさん (2012-02-01 16:34) 

降龍十八掌

たいちさん、ありがとうごいます。
古田先生の講演会などは関西中心なので、私は参加できないのが残念です。
by 降龍十八掌 (2012-02-01 17:06) 

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