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命がけの遣唐使時代? [歴史]

一連のGⅠシリーズも終了、全米オープンは来週、サッカーWCはもはや誰も日本チームが1勝をあげることを期待する人もいなくて話題にもならない。こんな時は、歴史のお勉強を・・・。

小・中学校で習ったころは、遣唐使というとかなり小型の船の絵を見せられて・・・、だから台風ですぐに沈没してしまい命がけだった・・・という風に洗脳教育されました。最近、テレビなどでも盛んにそんな番組(空海特集など)が放映されていますが、本当にそうだったんでしょうか?疑問がわいてきました。

小林先生の新刊『桓武天皇の謎』を読み返してみると、確かに歴史書(日本後記など)には大風で出向を取りやめたとかいう記述があるのですが、実はこれは『新羅軍が日本の船を攻撃するという情報が入った』から出向を取りやめたんですね。なぜかというと、本当の理由を書いたら沽券にかかわるので大風(台風)のせいにした。・・・と考えたほうが、はるかに説得力があると思います。現実に、遣唐使船の沈没率が丁半博打なみだったことを考えると、そう考えたほうが妥当のような。

確かに、そんなに簡単に船が沈没するなら、猟師なんてやってられませんし、海戦だってやってらませんね。(隋・唐対高句麗は何度も戦っているし、昔の倭国も百済まで海軍を派遣している。)だいたい、船旅自体が丁半博打のごとく危険なものなら、誰もそんなもんに乗らないと思いますね。それでも、もし行くとしたらよほどの使命感を持っていたか、切迫した理由があるということになりますが、当時の日本政府(大和朝廷)にそんな理由があったとも思えません。

だいたい、唐や新羅からも通商の船は往来しているでしょうから、商人の船に乗せてもらえばいいじゃないですかねぇ~?(まさに大船にのった気分で安心!でしょう)

平城京は奈良県にあるので、初期の遣唐使船は大阪湾から直接、出航していたそうです。渤海や新羅とも最初は仲がよかったのですが、日本国内の政権争いで渤海や新羅と敵対するようになったようです(だから、奈良時代には政変・事変が多い)。それで、遣唐使も朝鮮半島・渤海経由で行けなくなり、九州から直接、中国大陸へ渡航するようになった。

そもそも台風が近づいたら、出航を見合わせればいいわけで、天皇からの拝命(剣をもらう)を返す理由にはなりませんわなぁ~。だいたい、台風の時期に船を出すバカがいるか?船がそんなに危険なら佐渡に行くのさえ命がけだったということになりますからね。

鑑真の渡航失敗も伝説となっていますが、仮にそんなことが本当にあったとしたら、それは反対する勢力の妨害工作だったと考えるべきでしょうね。日本側にも唐側にも反対勢力があったでしょうから。当時のお坊様は、単なる宗教家ではなく、政府の外交官としての役目が主体であったからです。

この時代は吐蕃(トバン)勢力が力を持ち、唐が弱体化しつつあった。やがて、世界帝国としての唐が衰退すると、諸外国への政治介入がなくなり、朝鮮も日本も鎖国的状態がすすみ内向きの国家となっていった。後代、菅原道真公が遣唐使廃止をしたのもそんな背景があったからだ。


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たいちさん

先日、奈良国立博物館の「大遣唐使展」を観てきました。
by たいちさん (2010-06-11 13:35) 

collet

確かに!
そんなに台風ばかりが来るとは思えないし~
方角が分からなくなるというのもね・・・(;一_一)
by collet (2010-06-11 16:38) 

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