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『会稽東冶(ヤ)』はなかった! [歴史]

司馬遷に勝るとも劣らない歴史家・陳寿。その名著『三国志』の真の価値を知るものは少ない。なんせ、本場中国人の学者ですら正確に読んでいないからだ。因みに、三国でなくて三国なのは、志=誌だからだそうだ。まあ、三国志のほうがロマンチックな表現ですけど・・・。陳寿がそういう意味をこめたかどうかは不明ですな。

陳寿はもとは滅ぼされた蜀の人だが、おそらく相当の才能があったのだろう、敵国・魏を受け継いだ晋の歴史官吏となったようだ。おそろしいほどの才能を周囲がほっておかなかったんでしょうなぁ~。因みに、晋の武帝(司馬炎)は蜀の諸葛亮孔明の大ファンだったそうだ。この当時から、孔明は伝説となっていたんでしょうなぁ~。

さて、会稽といえば、呉越同舟の越王・勾践(コウセン)の故事(会稽の恥)で有名だが、古くは伝説の夏王朝の中興の英主とされる(夏后)少康の息子が会稽王であったそうだ。夏はゴアウルド?[わーい(嬉しい顔)](ウ)が始祖である。

その夏后少康の子ども(名前は不明)が、地元の漁民(であろう)が蛟龍(みずち)の害に苦しめられているのをみて、断髪分身(短髪にして、刺青する)することを教化したという伝説があるのだ。いわゆるヤクザの身なりだが、これが今のヤクザ(=倭人の末裔)につながっているのかもしれない。3世紀の倭人もこの風習を受け継いで、海に潜っているので陳寿は、『ああ、きっと倭人は地理的にちょうど会稽の真東だし、会稽あたりの風習を受け継いでいるんだなぁ』と類推したのだ。これで、なぜ倭人伝の中に、夏后少康の話がでてきたのか理解できる。

よって、会稽東治は会稽王の治世のことを言っているのであって、(写本の)原文どおり東が正しいのだ。夏王朝の首都は洛陽のあたりだったので、会稽王の支配する領域は東にあたる。

たまたま、会稽郡の南方に東(トウヤ、さんずいでなくてにすい)という地名があったので、勘違いされたのである。ここでもまた後世の原文改定があったのだ!では、なぜ、天下の范曄(ハンヨウ、『後漢書』の著者)大先生がそんな過ちを犯したのだろうか?范曄(宋、398-445年)は重大な見落としをしたのだ。確かに、東冶(トウヤ)は漢代と宋代には会稽郡であった。しかしながら、260年(永安三年)に分郡があって会稽郡の南部は建安郡(呉志)になっていたのだった!よって会稽東冶(会稽郡東冶県の意味)という理屈はまったく通らないのだ!それを書くなら、建安東冶でなくてはならぬ。

もしも、東冶の東に倭国があったとしたら、そこは台湾もしくは、沖縄(琉球)である。

おそらく、蛟龍(みずち)というのはサメのことではなかったか?今でも、漁師は長い赤フンをはいて、万一の場合にはサメ(ふか)に食われないようにしているという。

時はくだり、伝説の夏王朝から殷を経て周王朝となる。周の太王に三人の息子があった。太伯、仲雍、季歴である。この末子の季歴が有名な後の周の文王。太公望の後ろでずっと待っていた人です。その季歴の息子が昌というのですが、祖父の太王はこの昌を気に入り、季歴・昌のラインに位を譲ろうとした。そこで、その意を汲んだ長男の太白は、自ら会稽(呉)の地へいき隠遁する。ここで彼は例の分身断髪して、世を捨てた意志をはっきり示したといいます。つまり、昔の夏后少康は自ら分身断髪はしなかったでしょうが、太白は王族でありながら分身断髪したんですね。つまり、千秋太后(チョンチュテフ)の慶州院君のようにはっきりと謀反の意志はないことを示したといわけ。

きっと、太白という王様(会稽王)は、地元(呉)の民衆から、慕われたでしょうなぁ~。

 


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コメント 2

たいちさん

紀元前の中国の話は、難しいですね。
by たいちさん (2010-10-15 11:02) 

降龍十八掌

まあ、伝説の物語ですね。
夏も殷も後代になってつけられた名前だそうで、王朝といえるほどのものではなかったかもしれませんね。
by 降龍十八掌 (2010-10-15 13:14) 

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