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ケベク、人物整理 [韓国ドラマ]

王弟、翹岐(ギョウキ)は義慈王の弟(異母)というドラマ設定なのですが、本を読んでみると、翹岐は義慈王の息子となっています。

日本書紀では、後に母・妹たちとともに百濟滅亡前に済州島に島流しになったと書かれています。ここから、一般的には、彼が中大兄皇子だろうと推察されています。だとすると一緒に来た母というのが斉明天皇となるが・・・。ただ、注釈をみると母妹とは同母の妹という意味で母は含まれていないとありますので、どちらが正しいかは判断できません。思うに、実際には、家族で島流しというのはあまりに不自然で、むしろ天下りだったろうと思いますが・・・。つまり本社(百濟)の役員一族が支店(日本)のテコイレにやってきたというところ。

日本書紀・皇極(女帝)紀元年2月条(642年)には、『・・弟王子児翹岐及其母妹女子4人・・・』とあります。問題はこの、弟王子児をどう解釈するかです。ケベクでは翹岐(キョギ)が義慈王の弟=王弟という解釈で設定されています。また書記の注釈などでは、太子に次ぐ王子と解釈して王の弟や太子の弟であろうとも書かれています。ただ、武王も義慈王も子女は40人以上いたので、太子に次ぐ(有力な)王子って誰よ?・・・ってことになるので、かなりいい加減な注釈だと思いますね。だいたい、一般的な用語として弟王子なんて言い方があるのか?疑問に思いますね。

別の解釈としては弟王(王弟ではない!)とは、皇極天皇(姉)から見て、弟にあたる百濟王=義慈王とも解釈できます。王子ではなくて、子児=息子と解釈する読みかた。(娘の場合は女子となる)

義慈王は武王(ソドンヨ)の息子ですから、姉というのは新羅・ソンファ公主の娘といえます。もっとも、本当に武王が敵国新羅の姫であるソンファ姫を妻にしたかどうかははっきりしませんが(確か、朝鮮本国の正史には存在していないという。だから、検索しても出てきません。)なお、武王の子供は41人もいたそうです[ふらふら]。皇極天皇はその中でも次女である宝公主であるとの研究があります。

また、翌年・皇極2年4月条にも『百濟国主児翹岐、弟王子共調使来』とあり、この場合は明らかに、翹岐と弟王子というのは別人ですから、(皇極天皇からみて)弟である王子とは(皇極の)同母弟である智積(ちしゃく)であると考えられます。智積は百濟の大佐平(テチャピョン)であり、同年7月条にも記載があります。なお百濟ではドラマ・ソドンヨでもわかるように、最高官位の大佐平は王族でなければつけないとあります。ただ、百濟末期には、ドラマのように八大有力部族の沙氏(サテク王妃の父・沙宅積徳がテチャピョンになっている)が貴族ながらも大佐平になったとのことです。

また本にある系譜を見る限りは、義慈王はドラマのようにソンファ姫の息子であるかどうかははっきりしません。なお(書記では)皇極元年に義慈王の母は死亡したと記載されていますが、日本書紀では(朝鮮半島内で)死亡したと書かれていても、実際には日本へ亡命・移住していたというケースは非常に多いので、ソンファ姫は日本で生きていた可能性が高いかも。本当に新羅の姫だったとしら、百濟ではかなり肩身が狭かったはずですし・・・。ドラマのように優永(ウヨン)姫にいじめられていたかも・・・。

サテク王妃クミョン(琴英) クミョンというとチャングムのライバルと同名だ。ところで、サテクというのは苗字(姓)なんだろうか?


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たいちさん

先日、「ケベク」をチラ見しました。まだストーリーは分かりませんね。
by たいちさん (2012-06-04 15:35) 

降龍十八掌

たいちさん、ありがとうございます。
ケベクは、美人女優さんたちを見るだけでも価値がありますよ。
とにかく画面が綺麗ですね。
by 降龍十八掌 (2012-06-04 17:42) 

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