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問題な?オリエント急行殺人事件② [ミステリ]

オリエント急行で検索してみたら、面白い意見がありました。

ミステリーとして破綻している!

①雪で立ち往生してしまった列車では、イギリスの邸宅内の犯罪と同じじゃん!・・・という意見。つまり、列車は走っている最中でないと意味がないという意見です。まして、映画・ドラマとなると余計にその欠陥が目立つという意見。

②犯人たちが(犯罪の)シロウトなので、最初から勝負にならない⇒犯人たちのミスで、自然に(ウソ)がばれてしまった⇒拮抗する頭脳合戦というミステリ本来の醍醐味に欠ける作品・・・という意見。

①は確かに、そうともいえますね。まあ、難しく考えなければ面白いですどね。だが、②に関しては、疑問。だって、雪による脚止めというアクシデントがなければ完全犯罪だったわけですからね。

③ホームズなど19世紀の探偵は、科学的捜査という時代背景から、物的証拠や客観的証拠を重視、関係者の証言などを基本的には信用しない。一方、アガサ作品は20世紀なので、特にポアロなどは人間関係や証言を重視するという。

③の見解はなるほどと思いましたね。ポアロやマープルの真骨頂は、相手のウソや隠れた人間関係・感情を見抜くという洞察力にありますからね。20世紀の読者には古典的手法が、19世紀の読者には科学的手法がウケル・・・というわけですね。

ただ、本格的な捜査ではないがゆえに、逆に物的証拠が一切ない。⇒だから犯人たちを見逃すことが出来た・・・という理屈が成り立つわけですね。(最後にポアロは二つの説をだして、そのどちらを採用するかは鉄道責任者に託す・・・という形をとる)

つまり、乗客たちの矛盾する証言だけが証拠であり、12人全員(あるいはその一部)が絶対に犯人であるとは言い切れないんですね。

ドラマでは、最後に犯人の一人がポアロを殺そうとするシーンがありましたが、(原作の)ポアロは別に(自分の)命が惜しくて見逃したわけではありませんよね。(かといって、ドラマのように怒り心頭!・・・というわけでもないと思うのですが)。だが、冒頭のパレスチナでの事件が原作であるということは、ドラマのような解釈が正当なのかもしれない。(やはり、原作を見直さないと・・・)

ドラマ(デビッド・スーシェ版)のポアロは、全シリーズを通して一貫して正義ということを強調している。ポアロはホームズのように、知的欲求を満たすために探偵をやっているわけではない。もちろん、金のためでもない。だから、本当はやはり、12人の犯人たちを許せなかったはずなんだよなぁ~。赤穂浪士だって最後は切腹でしたからね。

やはりリンチはよくないですよ。もっとも、アメリカ人というのは証拠もなしにイラクに爆弾落としても、謝りもしない連中だからなぁ~。

ラストで、首謀者のミス・デベナムが聖書を引用して『正しいことをなせ!それでまた強くなれる・・・と思いました。』と抵抗するが、ポアロは『(その結果そう)なれましたか?』とやり込める。メアリーも反論できず、『でも正しいことをしたんです。』と負け惜しみを言うのが精一杯。

犯人たちは、全員、文明人はリンチなどしてはいけない・・・ということを百も承知で、感情だけで突っ走ってしまった。なんせ欧米では400年近い『法の精神』が伝統の文化ですからね。

よく考えると、原作ではラチェットは逃亡したので、殺さずに通報すればよかったんですよね。ですが、ドラマの場合は判事・検事が買収・恐喝されて無罪(or不起訴)となっていたから、殺すしかなかったという設定はよくできていますね。


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