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薯童謡(ソドンヨ)見たいなぁ [韓国ドラマ]

百済武王(ムワン)(?~641年) 諱(いみな)は余璋(ヨ・ショウ) 第30代百済王(在位600年~641年)

武王はなんともドラマチックな生い立ちで、ドラマにしてほしかったのですが、もうすでにドラマになっていました(2005年)。日本ではまだ一般に放映されていない。(一部、有料チャンネルのみで放映されたか?)

正史においても、前半生は不明であるのだが、ドラマチックな薯童(ソドンヨ、いもどう)の話は伝説となっている。いもはジャガイモ、サツマイモのイモであって、ようするにイモ)売りの子供という意味。だから芋姉ちゃんならぬ芋アンチャンの話なのだ。

ドラマチックな内容と違って、当時の朝鮮半島情勢は高句麗・百済、新羅、倭国がしのぎをけずる三国時代。しかも、隋~唐の半島征伐がまっさかりの時。(今のイラクみたいなもんですな。)実質的には、高句麗と百済は兄弟国みたいなものだし、百済と倭国は親子国みたいなものだった。一方、唐は遠交近攻策により新羅とは友好的であった。だから、百済の王族が新羅の王族と婚姻するのはけっこう大変なことだったと思われる。

百済第27代威徳(ウィドク)王の側室であった、ヨンガモは璋(チャン?)を産み、(新羅の)都のハズレに住んでいた。彼女が池にすむ龍と交わってできた子供ということなのだが、龍はおそらく王族のことをさす喩えであろう。美人の誉れ高い、新羅真平王の第三王女・善花(ソンファ)姫を手に入れよう策を使う。町の子供たちに、芋売りの歌を広めさせて、それが宮中にまで伝わる。その内容は・・・

姫様は夜な夜な芋ほりアンチャンと密会しているというもの。怒った新羅王は公主(姫様)を追放する。姫の母であるマヤ夫人は、せめてもと姫に黄金を授ける。旅の途中で、璋(チャン)が現れ、護衛を買って出る。これを喜んだ姫は、やがて張本人がこの青年だったことを知り、あの歌は二人の運命の歌だったのだと信じ込む。(なんともオメデタイ性格!)二人は百済に住んで、百姓暮らし。トホホ・・・[もうやだ~(悲しい顔)]。お金がなくなってきたので、姫は母からもらった金塊を出すが、それを見て璋は笑い飛ばす。

そのようなものなら、薯を掘る山に、それこそ山のようにゴロゴロあるわい!!

・・・となんともスケールのでかいホラを吹く。しかし、それはホラではなかった。山盛りの黄金を掘り起こして、新羅王にプレゼントする(しかも、神通力のある法師に頼んで、テレポートさせた!)。なんと婿ドノがとてつもない大物であったこと知った新羅王は正式に二人を認める・・・というグリム童話も真っ青の御伽噺(おとぎばなし)なのだ。

日本の童謡のものくさ太郎(実は天皇の息子!)と同じように、たんなる庶民の薯童の璋(チャン)が姫を手にいれられるわけはないわけで・・・[わーい(嬉しい顔)]、璋(チャン)もまた王の息子であったろう。黄金を掘り当てたというのも、実際には母がもっていた財産でか、あるいは王室が政略結婚のために出したものか。

小林先生の考証によると、彼の前半生が不明なのは、どうも倭国(日本列島のどこか)の出身だったからではないかということである。武王の後、まもなく百済は滅び(唐にやられる)、一族は日本列島に亡命してくるから深いかかわりがあったのは事実。因みに、高句麗の栄留王(?~642年)、百済の武王(?~641年)、日本の舒明天皇(?~641年)はほぼ同じ年に死んでいることになっている。隋に代わった、唐の圧力が相当きつかったことは想像に難くない。因みに、このときの新羅の王は善徳女王(?~647年)ですね。さらに、因みに、一説には武王の父親は第26代の百済法王(?~600年)であるという。この人は法王=聖徳太子のモデルですね。たった1年間だけ百済の王様をやって死んだことになっているけど、おそらく倭国へ渡って法王となっていたのでしょう。仏教に熱く傾倒していたことから法王と贈り名されています。とにかく、みんなみんな生まれた年は不明・不詳といういわくつきの連中ばかりですね。

ドラマでは、新羅に向かう途中で璋の母が死んでしまう!・・・という、善徳女王と同じような設定となっているそうだ。


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