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新羅出兵す!(昨日の大祚栄) [韓国ドラマ]

西暦667年。

安市城にこだわる薛仁貴を、契丹の副将・李楷固(イ・ヘゴ)が説得。平壌を目指して南下を開始。苦戦していた本軍の*大摠(総)管李勣(朝鮮読み、イ・ジョク)をアシスト。契丹軍は、大いに面目をほどこす。

またしても、高句麗・五部家(貴族階級)の和議の使者を血祭りに上げ、いよいよ平壌城に総攻撃。

しかし、またまたまた、高句麗軍の善戦により甚大な被害を出して退却。副将格の蘇定方(朝鮮読み、ソ・ジョンバン)はお前のせいだと、薛仁貴を非難してライバル心を見せ付ける。

長安の皇帝・高宗もオカンムリ。そこで、知恵者・皇后の則天武后は同盟国の新羅を動かすように提案。いよいよ、重い腰の新羅軍も諸城を攻略しながら北上し、漢城(ソウル)を経て唐軍と合流。

高句麗滅亡のときは迫る!

解説

いよいよ新羅が動き出しました。新羅は同盟国といっても、あくまでも朝鮮ですから唐に加担したくないのは当然。形だけ軍は出兵しても、実際には傍観していたようです。まあ、自国の国益を考えて、のらりくらりとふるまうのは当然の外交術ですからね。

有名な白村江の戦いでも、実際には新羅はあまり動かなかったそうです。新羅王・文武王のこのような態度は唐に不信感を抱かせ、百済滅亡後も蘇定方の部下の劉仁軌は、朝鮮半島に留まって監視を続けていた。

当時、新羅は将軍(大角干)・金庾信とゴールデンコンビだった先代・武列王(金春秋)から息子の文武王(法敏)の代になっていた。文武王は唐の圧力から仕方なく、出兵し、高句麗滅亡に重要な役を演じた。

672年

日本では大海人皇子の壬申の乱が起こる。新羅・文武王は援軍を送り、大海人皇子を勝利に導く。しかし、これが唐に知られることとなり、先の件とも合わさって、唐の侵攻を招く。名将の金庾信もすでに死んでおり、内外の圧力に耐えられなくなった文武王は日本に亡命にする。これが書紀の文武天皇として記録されることになったようだ。


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