万葉集がおもしろいほど解る? [国語]
万葉集は今も古典和歌の基本として、中学3年生の教科書に載っている。しかし、これは学問的に問題があることがわかってきた。なぜならば、万葉集とは教科書のように漢字・平仮名の混合で書かれているわけでもないし、ましてや完全な平仮名でもない。実際にはオール漢字で書かれているのだ。つまり、はっきりいって、どう訓読(あるいは音読)してよいのか解らないものなのだ。さらに、古代の朝鮮語の訓読みの可能性もある。つまり、結論としては、万葉集を古典の教材として扱うのは金輪際、やめるべきである。こういった、意味不明のものは大学において研究されるべきものであり、中学・高校で扱ってはいけない!
1 万葉集にはなぜ序文が無いのか?
国語の教科書の構成を見ると、単元の先頭に古今集の仮名序がカラー刷りであり、その後に万葉集、古今集、新古今集の歌がつづく。ただ、この順番はどうなんだろう。これだと、仮名序が万葉集の序文だと勘違いする生徒もでてくるのではないだろうか?実際には、万葉集には序文がない。無いというよりも削除されたものと考えられる。では、なぜ消されたのか?それは当時の朝廷にとって都合の悪いことが書かれていたためと考えられている。そもそも万葉集自体が、長い間、焚書・禁書の憂き目に遭っていたという事実が判明している。(有名な中国の史記という書物も同様)
2 表記の問題
次に、万葉仮名についての記述があまりない。後ろの方に、わずかに記されているのみ。しかし、これは問題だ。万葉集は万葉仮名(つまり全て漢字の当て字)で書かれているものであり、かならず、原文を併記すべきだと思う。この時代には平仮名はまだ無かったのだから。また、この万葉仮名から、音読みと訓読みの基本的理解の勉強にもなる。そして、中にはなんと読んでいいのか解らない歌や、解釈ができない歌があるということを説明すべきである。そして、おそらくは古代の朝鮮語の訓で読むのが正しいのである。(韓国のドラマを見ていると、そのイメージがよく解る)
枕詞というものも、ほとんどが日本語では意味が不明かこじつけであるが、古代朝鮮語で解釈すると明快にその意味がわかるらしい。
また、古代史との関連においても、飛鳥・奈良時代の政治と関係があるので、歴史の復習にもなる格好の分野なのである。そもそも万葉集自体が政治的な目的で編纂されたものであろう。そして、この政治的背景がないと、歌の解釈にも大きな齟齬をきたすのだ。その結果、ほとんどの中学生が(もちろん教師も)歌の意味がまるで解らないということから、興味がなくなり、ひいては古文オンチ・歴史オンチが増えていく原因になるのではないか?しかし、以下の基本的なことを抑えておけば、解釈はそんなに難しくはない。
基本的な古代史と代表的な和歌の解釈は抑えておかないといけない。
645年 乙巳(いっし)の変 蘇我入鹿の殺された事件
660年 百済滅亡
662年 白村江の戦い 百済復興を目指した倭軍の海軍が壊滅
672年 壬申(じんしん)の乱 大海人(おおあまの)皇子が天下を取った戦
686年 持統天皇即位(天武天皇死去) これは実際には高市皇子(天皇)の王朝。
陰陽五行説
東 南 西 北
青龍 朱鳥 百虎 玄武
春 夏 秋 冬
青 赤 白 黒 黄色
木星 火星 金星 水星 土星 ・・・五行(細木和子じゃないよ)
天武天皇は自らを漢の高祖に擬(なぞら)えた人であり、火星。また龍にも擬えたので、木星で暗示される。季節は春または夏で、色は青または赤。彼自身もこの色の服を身に着けたという。
一方の天智は金星であり、季節は秋、色は白である。
つまり、有名な
春過ぎて 夏きたるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山
は(一旦天下を取った)天武朝から天智系の持統朝への政権交代の歌である。洗濯物を干した山の自然の美しさを歌った歌では断じてない!
東(ひんがし)の野に炎(かぎろひ)のたつ見えて・・・西に月 傾(かたぶき)きぬ
これも原文にはしっかりと炎とあるのに、強引に太陽の日に置き換えられて説明されている。(この手の曲解が多い)これは明らかに戦乱の炎である。(昔、大河ドラマに『炎立つ』ってのがありましたね)また、西に月が傾いた(沈んだ)と説明されるが、原文は
西月渡
である。ここでも、西は金星の天智朝を指しているのであり、天下は天智系に渡ったという意味である。(自民党のように)政権が傾いたのではない!むしろ月=ツキ(幸運)が向いてきたという、掛詞でもあるらしいのだ。
3 万葉集はいかにして成立したか
どうやら万葉集は、当初は天武王朝の正当性を主張するために作られはじめたのだが、高市、持統、光仁・桓武朝と権力の変遷とともに禁書になったらしい。因みに柿本人麻呂は高市天皇に仕えていた官僚らしい。(もちろん、人麻呂は九州王朝の人である。奈良の大和王朝側の人ではない)
最終的な編纂者と考えられる大伴家持は、本来の万葉集が全二巻ぐらいだったのを第20巻にまで広げた。しかし彼もまた、失脚したためその後、万葉集は長い間、歴史に埋もれてしまった。ただ、その存在自体については、紀貫之が古今和歌集の序文でほのめかしていた。ただし、彼が序文を書いた当時においては、いまだにおおっぴらに真実を語れることはできなかったようで、万葉集が本当はどの天皇の御世に書かれたのかは不明である。
おそらく、万葉集は奈良地方でつくられたものではなく、九州王朝のものであったろう。ゆえに、おおくの歌が『読み人知らず』という形にさらたり、大和朝廷の天皇の歌に変えられたりしているようだ。
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