科学離れより歴史離れ! [文系学問]
今日のNHKのディベイト特集では、理科・科学離れがテーマでした。
これは、最近の記事で書いたアメリカの『科学リテラシー問題』(科学のためにできること)を、日本にもあてはめた最近はやりの議論ですね。国際的な学力テストで日本の数学や理科の点数が2位から6位になったとか、そんなに問題ですかね?
出席の長老もおっしゃっていましたが、6位といってもわずか数点の違いしかないので、誤差の範囲ですし、だいたい平均にすぎませんから、全体の傾向とかわからないわけです。だいたい、今話題のインド式算数のインドなんてランキングに入っていませんよ。
わたしの拙い経験からくる実感としては、小中における理科や算数がそんなにレベル低下しているとは思えません。むしろ、理科の方が覚えやすい簡単なことが多く、平均点も理科のほうが社会より高いですね。一方、いわゆる常識的な知識、県庁所在地とか、河川や山脈の名前など、まるで知らない中学生画多いですよ。まして歴史となると、これはもう壊滅的!国語の文法や活用なんて、昔は小学校で習いましたが、今の中学生は上位の生徒でもチンプンカンプンです。
ゴーマンかましてよかですか?
科学離れより、日本人としての常識が消えたことを問題とすべきだ!!
さて、なんで、こんな話をしたかというと、基本的な日本史を知らずして、馬券は取れないからですね。もし、知っていれば、今日の皐月賞でも①番タケミカズチの激走にカンタンに気付けたはずです。
先週はオリンピックの聖火リレーを守る謎の青い防衛隊で、ルルパンブルーの枠が連対しました。では、今週はどんなニュースが流れたかというと、何といっても善光寺の聖火リレーですね。
善光寺といえば、タケミナカタ。では誰が建御名方神を長野に追い詰めたのか?
犯人は、タケミカズチ!!(建御名方神はオオクニヌシの子といわれる出雲の神様。古事記では、官軍のタケミカズチを力比べをして、コテンパンに負けて、なんと長野まで逃げ出します。ところが、タケミカズチはとてもシツコイ奴で、なんと諏訪地方まで追いかけてきます。しかたないので、タケミナカタは諏訪から一歩も出ないから、勘弁してと命だけは助かり、諏訪大明神となった・・・とあります)
しかも、今日は長野マラソンだというではありませんか!
珍回答Ⅰ [文系学問]
毎度おなじみの、最近の中学生シリーズです。
歴史編①
天皇は日本国の( )であり・・・
正解は多分?象徴。だが、
中心
なる答えが!!うーmんm、右翼の先生方が大喜びする回答じゃ。教育基本法を改正(改悪?)する前に学生の常識レベルを上げるのが先のようじゃのう。
歴史編②
ドイツの民主的( )憲法
( )をカタカナ5文字で書け。もちろんこれも、ワイマール憲法のはず。だが
ベルサイユ!
なる答案が出現。宝塚歌劇団も泣いておるわ。ベルサイユのバラも、もはや死語か?ベルサイユがドイツなのか?とヒントをだしたら『じゃ、マルセイユ』と答えたこの生徒は通信簿4,5だけの生徒なのだが・・・(もちろん5段階)
歴史編③
田んぼを測量している絵を見て答える問題。もちろん、(太閤)検地。
昔の生徒なら、刀狩と太閤検地は条件反射で答えたものだが・・・
なんと!この点取り問題に
白紙答案!!とは
地方公共団体 [文系学問]
中3ともなれば憲法を習う。
9月ともなれば、第八章地方自治にはいる。
憲法学のフロンティアを言われて久しい、地方自治だが、最近は『地方の時代』とか町村合併とかで少しは話題に取り上げられるようになってきたようだ。
ひととおり、レファレンダムやリコールの制度、
首長とは?収入役とは?出納長とは?などを説明。
最後に、問題の地方の財源について講義。
だが、ここでいつものように、わるい予感が走った!!
『ところで、君達、地方公共団体ってなんだか知っているよねぇ~?』
『全然!!』(4人ともきっぱり)
センター試験解説(4) [文系学問]
第一問の問4から
演劇的虚飾にも実生活的虚飾にもまどわされない・・・とはどういうことか
(本文)
(役者がトチッタときに)
実生活でも演劇でもないもの、そうした暗黙の了解を超えた或る本質的なものを垣間見るのである。
このトチルことによって生じた奇妙な緊張感とは何だろうか。(最初に述べた古典的演劇の飛翔力をプラスとしたら)マイナスの飛翔力とでもいうのだろうか。この奇妙な緊張感を利用してとりいれたのがアンチテアトル(前衛的演劇)の手法である。
また、直後に
人間の実存を見出そうとしたのが俗にいうアンチテアトルの手法・・・ とある
選択肢
①演劇的に誇張されたせりふにも日常会話を写し取ったせりふにも懐疑的であること
②演技における装飾的な演技とも実生活における偽善的振る舞いとも無縁でいること
⑤演劇をささえる秩序にも実生活を統括する倫理にも組み込まれないでいること
センター試験解説(3) [文系学問]
いよいよハイライトの現代国語。
私の経験ではあの大きな問題用紙に大きな字で書いてあると、とてつもなく量が多く感じられて、プレッシャーがかかる。時間的なあせりも増すので、模試とは違った感覚に陥る。
特に国語という普通の先生・生徒にとって『わけのわからない、とらえどころのない』教科では、模試の点数もデキ・不出来の差が著しい。
要は、多くの(日本中ほとんどの)学校、塾で先生も生徒もごまかしている教科ということなのだ。
だが、真の読解力さえあれば、これほど簡単な教科、高得点がえられる教科はないのだ。
大問1は論説文
高校生にはかなり難しい内容だ。演劇を題材にして、実生活の問題を問う。写実主義とかアンチテアトルといった芸術関係の歴史用語も使われ、抽象的でわかりずらいだろう。
とにかく、素直に論理展開を追うしかない。(解らない用語は無視する)
まず、いきなり最初の文で
(役者が舞台でトチルと・・・)演劇という装置そのものが対象化される。
とくる。なんのこっちゃ?演劇て最初から対象だろう?
とまぁ、解らないところはほっといて次の
昔は演劇と実生活は相反するものだったので、トチリはただのミスであった。演劇とは安定して不動なる実生活からの『飛翔力』のみが問われた。
でなんとなく、展開が読める。今の時代ではその関係が成り立ってないということを言いたいわけなんだろう。で、(問1の漢字は常識なので省く。)
問2 飛翔力とは何か?
①と④が候補。後はダメ。なぜなら、本文に書いていないから。
出口の公式1 本文に書いていないことは即⇒×
だって、最初にかいてあるだろう。『次の文を読んで答えなさい。』って!
①は、実生活の揺ぎなさから離れて、別次元の虚構の世界に観客を引き込む力。
常識的にはこれだろう。だが、要注意!本当にこの文章にそう書いてあったのか?必ず確認してほしい。繰り返すが常識を問うているのではない。わが国の総理大臣だって常識は全く通じないだろう。
④は、安定性を不動のものと信じている観客の心を揺るがし、その思い込みを打破する力。
いやぁ、これもまじめに読むと丸をつけたくなりますね。 確かに、演劇ってそういうものかも知れませんね。だが、実生活を『安定性で不動のもとの』観客は信じているだろうか?そんなことはあり得ないだろうし、本文にも書かれていませんね。よって×。
正解は①です。
次にはこうくる。
現代、その前提であった実生活の安定性は揺らいでいる。よって先の実生活と演劇の関係も成り立たなくなってしまった。両者は互いに疑い始めるようになった。
で、写実主義とは・・・と続く。
この疑い始めた・・・というのがまたも不明ですね。すぐにはわかりませんので無視。さて、ここで
問3 演劇に依拠して実生活を疑うとはどういう意味か?具体例を選べ。
これも②③⑤はすぐに消去。①と④が残る。①の選択肢が水戸黄門みたいでおもしろい。皆さんも考えてください。
① 時代劇の悪代官が最後に懲らしめられる。それを見るにつけ現実では正義が勝つとは限らないのではないかと思う。
④ 大家族の食事の場面で威厳ある父親の振る舞いを見た。家に帰ってから、父親とは何かと考えさせられた。
さぁ、あなたはドッチ?
ヒント この前文で『我々が実生活の確固たる手触りを失ったからこそ、演劇を通じて・・・』とある。
センター試験解説(2) [文系学問]
センター試験の国語。
漢文
よくある話。お決まりの君子とは何か?というもの。話の筋はお決まりなので短時間で簡単にできるだろう。もちろん満点の50点。
あらすじ。
主人公が夜部屋にいると、ねずみががりがりとやってうるさい。怒って杖かなんかを投げつけると、ちょっとやんだが、やがてまたやりはじめる。それで、小僧に命じてねずみをおわせたが、小僧が寝たらまた始めた。そこで、隣の部屋にネコを飼っていることを思い出し(最初から思い出せよ!)、部屋に入れたら静かになった。
曰く、『人間はネコより賢いはずだが(霊ナル)、ねずみとりはネコにかぎるなぁ』ということで、何事も適材適所という教訓。なんだか、イソップ童話のようですな。
読み下しも問題もないし、いたって簡単、点取り問題か?
古文
なかなかいいお話。素直に判断すれば、古語の知識はいらない。現に古語や文法をまったく忘れている私が、ほぼ満点。
あらすじ。
(昨年の4月から病に倒れている17歳の娘が回復の見込みのないまま新年を迎える)
そんなこんなで年も改まった。1月はバタバタしてすごした。娘の容体は変わりなく、(心配で)付きっきりで看病し、嘆くよりほかにすることがない。
梅が咲く季節となり、女の子が枝を折って?持ってきてみせる。それを見た娘は『なんていい香り。私は今日明日死ぬ身です。桜を見ることもなく死ぬのではないかと、心残りです。』
と言う感じでしょうか。(多分)
二月(如月)5日となり、いよいよ最後がせまってきた。多くの人を呼んで、あれこれと形見の品を分けている。『普段、寝たきりで一緒に遊べなかったけれど、私が死んだら、いったいどこにいったのかしらと思うこともあるでしょう』
ウウウ・・・、なかせるセリフですね。
ということで、周囲の人も(いかなる岩木もえたふまじ)ありさまで、もらい泣きする。
遺言で『決して火葬にしないでください。煙になって消えてしまうのいやなの。親に先立ってお二人を悲しませる憂鬱さで、黄泉の国への旅路も心残りです。また、妊娠中の姉上の子供のきっとかわいい顔が見れないのも残念です。とにかく、決して私の体を焼いたりしないでくださいね。』
親も『よし解った。決してやいたりしないで、大切に近くに葬るからね。』と約束すると手を合わせて『よかった、願いがかなったわ。』一瞬、黄泉がえるような顔色にもなったが、なおるはずもない。
4,5日後、桜が咲く。『あら、もう咲いたのね。春の行方もしらない間に。』
ついに3月5日に娘は死んでしまった。遺言どおりに葬ったが、老いた私たち両親は返すがえすもむなしいものだ。
変な文法問題もなく、良問だ。唯一の助動詞の問題も確実なところだけ選べば、正解に行きつくので問題ないだろう。
要は現代国語の論理的読解力しだい。特に古典の知識は必要ない!
睦月、如月などの常識があればいい。皐月賞、菊花賞など競馬をやる人なら常識なんですがね・・・
今週の国語から [文系学問]
中3教科書シリウスから。いい文章があったので紹介します。
前段の要旨
人間はだれでも自分のことは自分が一番よく知っていると思っている。だから、自伝があるのだが、本人の書いた自伝なんて読みたくもない。
なぜなら、多かれ少なかれ本人の自慢話になるのであり、どうしても自分を飾った内容になってしまうからだ。
(コメント)自分のブログも確かにそうです!
自分では気づかない自分というものがあるということを、十分に理解した上で、自伝をかくならばまだいいのだが。(おそらくそんな人は少ないだろう)
(コメント)ソクラテスの『無知の知』を思い出しますね。
本人の知っている本人なんて、つまらない!!
後段の要旨
だから、自伝はフィクションであるべきだ。小説のスタイルをとるべきだ。あくまでも、(客観的な)事実は素材にとどまるべきであり、筆者の想像・推理が付け加えられることでいきいきした本当の自分が語られるのではないか?
(感想)確かにそうですね。でないと、ただの無味乾燥な歴史年表になってしまいます。
ところが、その後たまたまその後、司馬遷についてふれた本を読んだら、彼はあくまで事実にこだわったとあった。それで、事実以外を消してしまったとある。ところが、それを読むとちっとも面白くない。結局、消したところをもう一度書いた。
その後最終的にどうなったかは分かりませんが、今も『史記』は名著としてたたえられておりその生き生きと描写は有名ですから、きっと、最初の原稿どおりになったんではないでしょうか。
このように、歴史というものは事実にこだわるべきという意見と、いや、それでは本当の歴史は見えてこないという意見と二つの面があると思います。
ところで、古事記は神話としては面白いが、事実がまったく不明。日本書紀はウソやごまかしが多くて、はっきりしない。まことにやっかいなものです。