浅はかな「東大のディープな日本史」 [歴史]
たまたま本屋で目にした「ディープな東大の日本史」。どうせろくなもんじゃねぇ~と思いつつも、一応、見たらやはりその通りだった。
「大和朝廷が百済を援助したのはなぜか?」という東大の入試問問題がサンプル。
いや、そもそも「倭国」って大和朝廷ですか?
百済・倭国連合軍は唐の電光石火の海戦によって、海の藻屑と消えたんですよ。倭国は滅んだにきまっているでしょうが。少なくとも、戦後は、太平洋戦争後の日本のようなGHQ傘下になったに違いない。百済の最後の王様である義慈王は唐へ連行されました。倭国王も同様の扱いを受けたはず。
そんなことは歴史書を見れば、ちゃんと書いてあります。そういった情報は、いっさい学生・生徒に教えずに、戦後、天智天皇が天下を取って、やがて平城京ができたという話。
そんなバカな!
敗戦国が、ちゃっかり唐の技術を伝授してもらい、長安に模した平城京を作ったという話でございます。
一方、百済はどうか?隋や唐に対抗して、アジアの覇者たらんとした強国は、完膚なきまでに滅ぼされて、後進国の新羅が統一いたします。これは、中国得意の「近攻遠親」策です。お互いの利害が一致するわけですから。
ならば、当時の文明の中心が半島に近い九州だったとしたら、日本列島における新羅的な立場が辺境の大和ではないでしすか。大宰府を中心とした倭国は最低2度にわたる唐軍(あるいは、唐の支配下の朝鮮軍閥勢力)に進駐を受けている。後に、「筑紫君」といわれる「旧倭国王」らしき人物も、唐の人質から解放されている。
一方、大和朝廷はどうだったかというと、敗戦の後に論功行賞と宴会をやっている。こんなバカな話があろうか?
どうみたって、大和側は唐に味方した新羅的な立場ではないか。
さて、くだんの「ディープな日本史」の著者さんは、大和朝廷は百済から先進文化を受容していたから、危険を承知で百済との同盟を順守したといっている。しかし、敗戦後、唐と密接な関係を結び、新羅とはあまり仲良くしていないわけだから、まるで理由になっていない。まして、国が滅ぼされのを覚悟で、百済を応援する理由には全くならないのは小学生でもわかる理屈だと思うのだが。
結局、東大や学会の大勢がこのような態度をとるのは、「日本には大和朝廷しかなかった。かなり早い段階で、大和朝廷が日本列島全土を統一した」という妄想を唯一のテーゼとしているからだろう。
だが、実際には、後世の奈良・平安時代ですら、東国をも完全には支配下には置いていなかったのは常識。
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