SSブログ

日本「書」紀もなかった? [歴史]

古代日本史の定説・教科書的説明は、100年いやそれ以上の間、ほぼ変わっていない。小林惠子先生の著書のまえがきにあるように、それは「学問の成果・成長がなかった」ということに他ならないだろう。

水戸学とその流れを受けた東大派閥の弊害である。都合の悪いことは原文を誤字として改定する。読めない文字もヤマトタケルとか勝手に訓読する。それもできないときは、原文自体が創作だとする。つまり、最初から結論があり、とても学問とはいえない。

近代においては、流石に神武天皇の実在を信奉する学者がほぼいないが、それでも継体天皇以下連綿とつづく万世一系的歴史観は未だに確固とした定説となっているといってよいだろう。(※逆に、反体制派の学説のほうが、神武東征は事実だったと主張している)

いわゆる古事記・日本書紀のねつ造論も、実は、天皇制を批判したものでなく、逆に記紀を文字通り読めば大和朝廷一貫史観が破たんするので、これはおかしい!日本は古来から大和朝廷の国だ!という皇国史観を逆に強めるための論理なのだ。

ところで、ついさっき見つけたブログで、日本書紀についての記事を見つけた。たまたま倭国年号(いわゆる九州年号)を調べていてみつけたもの。1988年の中小路駿さんの論文。

それによると・・・

1 日本書紀は現存する写本がいくつかあり、すべて日本書紀とか日本書記とかいうふうにかれている。

2 その成立を記載した続日本紀には日本紀としかない。

となると、はたして日本書紀・日本紀・紀と呼ばれる三つがはたして同一なのかどうか疑問がわく。

余談だが、この問題を最初に指摘した本居宣長は、「日本は中国のように王朝・国号の交代はないから、なんでこの書物に日本という国号をなづけたか許せない!」・・・というバカなことをいっている。本当にアホですわ、この人。

ただ、この本居宣長の指摘の一部には関心する。それは日本紀でなくて、日本書とあるのは漢書とか宋書、隋書といった中国流の形式にならったのだという指摘。

※ちなみに、中国伝統の記載方法の〇〇書というのは紀伝体である。「紀」の部分は本紀や帝紀をさし、「伝」の部分は列伝をさす。だから日本書紀とは日本書という歴史書のなかの紀の部分(のみ写本にしたもの)という意味である。歴史書には本文のほかに列伝(いわゆる伝)や王の系図がつく。続日本紀によると紀伝体の部分が30巻で系図が1巻あるというが、系図の部分は残念ながら今は残っていないという。

次にこの論文の中で論者は、「日本紀」で意味は通じるのに、なぜに「日本記」なのか?と疑問を投げかけている(系図1巻の部分は残っていないので、実質的に今ある日本書記は日本紀と同意義であるのだから)。日本書記以降の正史は続日本紀・日本後紀・続日本後紀となっており、「書」の字はない。これは、中国(唐)の影響がなくなったせいだろうか?7世紀末~8世紀は唐が九州に進駐しており、戦後のGHQ支配下の日本に似ているからだ。日本書記成立当初は当然、中国(唐)側の作法に従って歴史書がつくられたはずだ。

1 中国の正史で〇〇書は単一王朝。〇〇史は複数・数代の王朝の範囲にわたるもの。

※ちなみに三国志の志は誌の略字で、この場合は同時に並立した王朝を扱っている。なお、呉書には紀の部分はなく列伝のみだそうだ。

2 〇〇書というものは、その前提に興亡する王朝の存在を示している。

※まともな人間なら、未来永劫つづく王朝なんてこの世に存在しないから、当然のことと思うだろう。だが本居宣長は違った。おそらく彼の頭では、宇宙人はいない!ってのと同じぐらい、日本は昔から万世一系と思い込んでいた。

しかしながら、この本居宣長の偏狭な学問態度は反面教師としての示唆に富んでいる。宣長的歴史観においては、古来、日本列島には王朝交代も王朝並立もなかった!・・・ということなのだ。 この態度は現在にも濃厚に受け継がれている。つまり、正史に書いてあること以外は全部、ウソ・偽書というキャンペーンをはるのだ。逆説の〇〇史なんて書いていい気になっている人もその系統である。もっとも、そういう態度をとらないと、この業界・学会では生きていけないのだ・・・。

結論(この論文の)

日本書紀には紀にあたる30巻の部分とほかに1巻の系図(失われた)があるのみで、列伝の部分はない。よって、倭国ではない、(とってかわった)新王朝である日本国の歴史書紀伝体の部分という理解でほぼ間違いないだろう。だから日本書・紀なのだ。

ただ、日本という国号は倭国の末期になって自ら改称したのかもしれない。日本は倭国から禅譲を受けたという建前であり、大和朝廷側が日本と名乗っていたわけではないようだ。今の日本国憲法が建前上は大日本帝国憲法の改憲であるというのに似ている。

そもそも、日本書紀自体が神武天皇は栄光の九州地方からやってきたと記載している。これは当時の文明の中心が九州であることを証明している。神武天皇は兄たちが戦死したので、その後を継いだ。ふつうに考えれば、神武一派は九州における王族の分流か豪族クラスだったと思える。自分たちは、九州の分派であると自慢しているわけであり、わざわざ自分たちの出自を卑下して書くわけはない。しかも、大和攻略にしても最初の攻撃は惨敗であり、神武の兄たちは悲壮な戦死。その後はゲリラ作戦と敵側の寝返りで、だまし討ちにしての勝利と書いてあるぐらいだ。バリバリの右翼の本居宣長は、それが気に入らなくて、だから日本書紀は百済官僚の作文だと批判した。現在の通説もだいたいそういうことになっている。結局、神武東征の部分が日本書記の序盤のハイライトであり、結果的に7世紀末~8世紀初めに大和朝廷が九州側をも併呑して関西以西を統一したことの正当性を主張する根拠になっている。書物全体を読めば、そういう構成だよね。だから神武の後の2代目以降(欠史八代)は以下省略!・・・となっていても何の差支えもない。たまたまその部分が散逸したのか、あえてカットしたのかは不明だが。

この論文でもう一つ面白いのは、日本書紀の成立年代について。

日本書記の扱う範囲は持統天皇の末まで。だから、日本書記が持統天皇が死んですぐに書かれ始めたのなら理解できるのだが、「続日本紀」においては元正天皇のとき(元正即位5年後の720年)とある。

しかし、実際には持統の後は、文武・元明と2代つづいている。どうしてそうなったのか?どうして持統時代の終焉が時代の節目になるのだろうか?そして、どうしてその後の正史には「書」がつかなくなったのか?

これも序盤のもう一つのハイライトと関連していると論者は指摘いる。それはアマテラスの天孫降臨だ。持統天皇は孫の文武天皇(15歳)に譲位した。まさにアマテラス神話の再現であまりに出来すぎのシナリオ!ドラマでいえばプロローグとエピローグが完全にだぶっている名作。しかも、この時期に大和朝廷の統一がほぼ完成したというタイミング。しかも歴史家はこの天皇に持統天皇という意味深な諡 (おくりな)を与えた。

伝統の倭国の王統を継続したという意味なのだろうか?

文武5年に初めて日本国は元号を制定して大宝元年とした。当然、唐国の許可があったということだ。元号の制定は天子のみが許される。

とにかく、この時代を区切りに、もはや並立する王朝は日本国内からなくなったし、日本は古来より万世一系という建前が確立した。よって、もはや王朝の交代や並立を前提とする〇〇書は日本から消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 


nice!(2)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 4

たいちさん

興味深く読ませていただきました。
by たいちさん (2013-12-25 11:20) 

降龍十八章

たいちさん、ありがとうございます。
私も興味深く読みました。なかなか盲点となっていることでしたね。
by 降龍十八章 (2013-12-26 12:27) 

いしやま

安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本に布教に来て30年ほど滞在し、作ったのが「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きです、さらに家康の外交顧問もしていました。スペイン国王からはメキシコに帰る難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。
古代から伝えられてきた日本の歴史について知ることができる タイムカプセル でしょうか。これが戦国時代直後までの古代史の認識で、倭国年号が522年善記から大宝まで記載され其の後に慶雲以後の大倭年号が続きます。明治以後にはこの歴史認識は失われてしまったようです。日本大文典の倭国年号の存在は、ウィキなどにも記載されていません。ついでに 倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 続日本紀記載の720年「日本紀」は普通古代史専門家はこれを「日本書紀」と読み替える前提ですが、理由無く読み替えられない、別物という論証がされています。
宜しくお願いします。

by いしやま (2014-01-05 11:09) 

降龍十八章

いしやまさん、ありがとうございます。
全く別物という意見があるのですね。貴重な情報、ありがとうございました。
by 降龍十八章 (2014-01-09 17:39) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。