今週の国語から [文系学問]
中3教科書シリウスから。いい文章があったので紹介します。
前段の要旨
人間はだれでも自分のことは自分が一番よく知っていると思っている。だから、自伝があるのだが、本人の書いた自伝なんて読みたくもない。
なぜなら、多かれ少なかれ本人の自慢話になるのであり、どうしても自分を飾った内容になってしまうからだ。
(コメント)自分のブログも確かにそうです!
自分では気づかない自分というものがあるということを、十分に理解した上で、自伝をかくならばまだいいのだが。(おそらくそんな人は少ないだろう)
(コメント)ソクラテスの『無知の知』を思い出しますね。
本人の知っている本人なんて、つまらない!!
後段の要旨
だから、自伝はフィクションであるべきだ。小説のスタイルをとるべきだ。あくまでも、(客観的な)事実は素材にとどまるべきであり、筆者の想像・推理が付け加えられることでいきいきした本当の自分が語られるのではないか?
(感想)確かにそうですね。でないと、ただの無味乾燥な歴史年表になってしまいます。
ところが、その後たまたまその後、司馬遷についてふれた本を読んだら、彼はあくまで事実にこだわったとあった。それで、事実以外を消してしまったとある。ところが、それを読むとちっとも面白くない。結局、消したところをもう一度書いた。
その後最終的にどうなったかは分かりませんが、今も『史記』は名著としてたたえられておりその生き生きと描写は有名ですから、きっと、最初の原稿どおりになったんではないでしょうか。
このように、歴史というものは事実にこだわるべきという意見と、いや、それでは本当の歴史は見えてこないという意見と二つの面があると思います。
ところで、古事記は神話としては面白いが、事実がまったく不明。日本書紀はウソやごまかしが多くて、はっきりしない。まことにやっかいなものです。
学生時代に「史記」を勉強したとき、なぜ司馬遷が、「春秋」の編年体に対して紀伝体を創始したか、そしてなぜ後世の正史はそれを踏襲したかということに興味を持ちました。
そこで、紀伝体で書かれた列伝を読んでみました。それで、少し分かったような気がしました。韓信にしても李陵にしてもその人間が実に生き生きと描かれていたのです。
司馬遷の主観、想像も多分に入っていたのでしょうが、歴史は生きた人間が創るものと考えれば、人間を描くことが歴史を記録することだ、といえるでしょう。司馬遼太郎の幕末を舞台にした小説ともつながるような気がします。
by ヘコタ (2005-11-29 19:12)
司馬遼太郎の花神はおもしろかったですね。坂本竜馬は小説が有名になりすぎて、実際以上にヒーローになっているような気がします。
以前、るろうに剣心が実在の人物だとカン違いしてた降龍十八掌です。
by 降龍十八章 (2005-11-29 20:23)
自分も高校生のころあまり頭は良くなっかたですが
図書館で史記を読みました。
現在ならともかく古代中国の時代に
事実にこだわれば漢王朝にとって都合のよくないものもあったと思います。
史記にはものすごいリスクがあったのかなと
勝手に想像してしまいました。
by seida-n (2005-11-30 22:07)
昔は本当のことを書いて殺された人がいたそうです。でも、何人か殺したけどダメで、とうとう皇帝はあきらめたという話があるそうです。(昔、ラジオで聞いた話ですが)
焚書坑儒も本当は漢王朝のしわざかもしれませんね。
by 降龍十八章 (2005-12-01 10:01)